蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

理智不二界会~両部不二のこと

る以前に書いた文章です。ご参考まで
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ざっと目を通して、ハッとした箇所があった。それは若き日の元三大師が、石山寺淳祐内供(890(寛平2)-953(天暦7))を通じて、その資となる元杲(げんごう)上醍醐延命院僧都(914(延喜14)-995(長徳元))と交流されていたらしい、という説明であった。京都の真言寺院は、実は台密諸師との交流が想像以上に活発であったらしいことは、前から言われていた。台密のエースである若き良源阿闍梨が、南都興福寺継摩会で義昭師との対論に能弁を発揮された背景―――。恐らくは、東密の学匠が弘法大師以来の伝灯として南都大寺で研鑽するカリキュラムを肯定的に捉え、顕密二教の研鑽に励まれたことは想像に難くないし、事実そうである。(密教辞典(法蔵館))その際、大津の石山寺にも足を運ばれ、そこで二歳下の東密の俊英元杲師と交流されたことで、お互いに切磋琢磨の刺激を受けながらの学修が行われたのだろう。因みに、写真の画像は日野法界寺に所蔵のものである。法界寺は今は真言宗醍醐寺の別格本山であるが、かつては天台宗のお寺であった。また、元杲阿闍梨の師となる淳祐内供の師とは、理源大師の正嫡観賢僧正となる。さらに言うと、その元杲阿闍梨の正嫡は仁海僧正であるが、この方は『玄深口訣』という解説書を残した。三宝院にて護持されることになる最勝恵印三昧耶法の整備には、台密良源慈恵大師との交流もかなり深く影響しているのではないか…、そのような気持ちになってくる。数年前、『理智不二界会』という両部曼荼羅を統合する着想について、ある人から『台密で最重要視する蘇悉地の教えの影響ではないか』、と言われたことがあった。実際、『本覚讃』の作者は不明というのが一般の説明ではあるが、これを伝良源作として尊重する説明のあることも紹介しておきたいと思う。(真言宗で読むお経入門・『和讃』(大法輪閣)) 言い換えると、当山方の教学において非常に近しい哲学が台密には伝法されているという意味がそこにはあるのである。そうやって考えてみると、『両部而二』を確信された高野山宥快法印に代表される教えの存在は、非常に対照的にして興味深い。『これこそが東密である』というような…。但し、両部不二の行き方もまた東密であり、れっきとした当山派の哲学なのである。
追伸、
OOさん、どうも有難うございます。拙き筆力にもめげることなく、仰せの通り、大勢の方々にご紹介申し上げることに致しました。
『南無良源元三慈恵大師常住金剛』
合掌

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元三大師@日野法界寺