蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

三つ目君

昨年11月のブログで、以下を記した。今回、少し思うところがあり、再掲することにした。

<Quote>
*****************************
友だちはいいもんだ。目と目でものが言えるんだ。
困ったときはチカラを貸そう。遠慮はいらない。
いつでもどこでも、キミを見てるよ。愛をココロにキミと歩こう。
******************************
~ 劇団四季ユタと不思議な仲間たち』より ~

― 中略 ―

そう、“友だち”はいいもんだ。草葉の陰からじっと見守ってくれているんだ。困ったときこそ、ココロの目と耳を澄ませて、静かに語りかけてみ給え。きっとチカラを貸してくれる。

護法、即ち『童子』は、どんな時も一緒だ。
<Unquote>

童子』とは、仏天がその誓願を成就せんと欲するとき、その手足となって働きを助ける僕(しもべ)であり、眷属の神霊である。このことは、前回説明したとおりだ。

***********************************
昔、手塚治虫氏の『三つ目がとおる』という漫画があって、当時中学生だった私は、主人公の三つ目君こと写楽保介(しゃらくほうすけ)のファンだった。彼の頭はいつも丸坊主。お味噌のCM/マルコメ君みたいで、とにかく好感をもって読んだ。

そのおでこには、いつもは×印の白い絆創膏が貼ってある。その絆創膏がある間は、情けないくらい優しく、時にはフ抜け同然にダラーッとしているが、ひとたび火急の事態があれば、親友/和登千代子(わとちよこ)によってその絆創膏が剥がされた途端、『三つ目君の眼』は爛々と輝いて信じられないくらいの、“超絶の働き”をする。

おでこ/眉間にある、古代三目族の血を受け継ぐ者しかもたない、超絶の第三の眼が開くのだ(!)―――。
************************************

この世界に足を踏み入れるまで、実はこの『童子』なる眷属が、正直よく理解できなかった。あくまで本尊たる仏天に仕える存在であることから、決して表舞台に登場して信仰されることがない(ように見えた)からだ。

ところが、お不動さまの信仰を深めていくうち、『八大童子』とか『三十六童子』と呼ばれる、童子形の眷族の存在を知るに至った。『おお、まるで三つ目君じゃないかあ~』…。その御影のいくつかを目にするたびに、心底そう感じたものだった(笑)。

或いは、弁天さまの信仰を深めるとする。そうすると、『十五童子』という眷属の存在を知る。或いは、宇賀神将という神霊、さらには眷属の八大龍王、そして習合した宗像三神/市杵島姫神(いちきしまひめのおおかみ)など、弁天信仰固有の、その豊かに広がった信仰世界の存在に気付く。

こうした『神話』に触れたとき、皆さんは率直にどう思うだろうか―――。

私は、若しそれを一笑に付すことを本気でする人がいたら、申し訳ないが、心身ともに健康体を享受した者の『思い上がりだ』と思っている。

こう言うには理由がある。私の職場でも、世間のほかの方と同様に、心身をすり減らしてしまったとしか思えない同僚が現実にいる。実際、個人的に相談を受けたことも数回あった。

そういう時、プロのカウンセラーのように振舞えた/振舞えるかと言えば、答えは完璧に『NON』だ。グループ企業に、職員のメンタルケアーを支援する会社があるのだが、そこからのお知らせについて、イントラネットを通じて読むにつけ、素人の付け焼刃で対処できるほど甘くない現実を、身内や私自身の周囲で諸々起きた事象を思い出しては、暗澹とした気持ちになるのは事実だ。

ところが、である。そういうネガティブな精神状態に追い込まれた人に対して、所謂『健常者』なる人たちは、必ずと言ってよいほど『正論を吐く』。『それができるくらいなら、とっくに治っているんだよ』と。今日も後輩の一人を諌めたのだが、恐らく彼はそれを本当の意味で理解することは、今のところないのかも知れない。

彼がそれを知る時とは、彼が、同じくそういうネガティブな精神状態に追い込まれた時なのだ。言い換えると、此処にこそ、悲惨の本質が隠されている、ということである。

往昔の人々が、なぜ『童子』という形で眷属を感得し、否、まさに『神話』の如くに信仰実践を護持してきたかと言えば、純粋無垢、即ち、人が本来的に具備するココロのあるべき姿とは、『親しく愛すべきもの』と捉えたらからだ―――、きっとそう思う。

通常、密教の教相門で『清浄菩提心』と呼ぶ箇所が、人々の信仰実践では、『童子』に仮託されていた、とも説明できる箇所だろう。

ただ私自身は、先に述べた『ユタの不思議な仲間たち』や、或いは『三つ目君』のような、とても親しい友人は、自らのココロのあるべき姿としてあって欲しい―――。そういう人々の切なる願いが、仏天によって聞き届けられたものとして、有り難く受け止めている。

そして、今たまたまこのブログを目にされたモニターの向こう側におられる貴方/貴女。最後に申し上げたいことがある―――。

『自分が時代の最先端を走っている』と思うのは構わないのだ。寧ろ、大いにそう思って活躍すべし、疾走すべし。而して、自分が拠って立つ場所は、必ず誰かの支えのあること。ここだけは、絶対に忘れてはいけないのだ、と。

視線を転じれば、だからこそ、誰かの支えをお願いすること自体、決して難しいことではない。そこには必ず、『誰か』がいるからだ。

ひとつだけ大事なことがある。素直になることだ。素直なココロが少しでもあれば、そのココロは『不思議な仲間たち』や『三つ目君』になってくれる。『直き正しき真心=赤心』とは『清浄菩提心』であり(雲伝神道)、その本体とは、まさに覚りであり、大日如来なのである。この大日如来自らそのお姿を変化させつつ、その願いを聞き届けられた刹那、貴方/貴女を助けるだろう。

曼荼羅の中心におわす大日如来。人々の切なる願いを聞き届けるため、奮迅の働きをするため、その変化されたひとつの形。それが『童子』という眷属のご神霊だ。

弘法大師は、このようなメカニズムを『ビルシャナ仏の法身説法』という用語で説明し、後進の新義派/頼喩僧正は『加持身説法』と読み替えて説明している。

要は、すべての生命は真言教主大日如来と繋がっており、如来の慈悲から発動される智慧の加持力によって、私たち誰一人として救済の恩寵を授からないことのない大事を、今を去る千年以上も前に主張していたということだ。

だからこそ『福聚の海は無量なり』(観音経偈文)であり、『衆生の心に随って求むる所を円満させ給う』(不動経)になるのである。断じて絶望する必要はナイ。『祈る』のだ。

どうか、よく記憶しておいて頂きたい。