蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

神祇作法の意義

密教修験道において八百万神祇との関係を考える場合、先師の伝えたいくつかの経典類に戻ることは、大切な実践だ。

その中には『神祇講式』というものがあり、参照すべき重要経典としてあげるべきだろう。所謂『両部神道』という、真言神道の基盤となる教えのエッセンスの込められた教典であり、実際に有り難く受け止めている。

ところで真言密教の事作法に、両部・御流・雲伝・三輪などの真言神道が伝えられている。とりわけ弘法大師ご自身が、わが国の神々を大切に取り扱った歴史的な経緯があることが大事なのだ。これらの神道が創流される動機付けとして、決して見落とすことが出来ない点である。

真言神道とはその伝灯に基づいて、後進の学侶らが鎮守神祇に対してどのように礼拝するべきか、真剣に検討した結果である。先ずは自分たちの作法を拠り所として、真剣に模索し、密法作法として結実させた結果として、大切に受け止める必要がある。(青山社刊:真言神道 稲谷裕宣編)

一方、江戸中期以降に活発化する平田派国学者らの言動は、後にある廃仏毀釈の流れを考える上で注意が要る。特に密教寺院を中心とする旦那寺に対して強まる批判の中に、『穢れ』の概念を持ち出しては、曼荼羅諸尊を『蕃神』という名の下に貶める内容を伴ったことは、決して看過すべきではない。

それを放置することは布教上の大きな難事となるだけでなく、宗祖大師嫡々の伝灯すら見失わせるものだ。平田派国学者らの(感情的な)批難に対する有効な反論として、八百万神祇を密教の精緻な理論カテゴリーの中に入れ、再構成して提示する行為はこの時代に強く要請され、そして、それは実施された。そのような時代背景を決して忘れてはいけない。(前掲/雲伝神道

この『理論的反駁』こそ、密門/飲光慈雲尊者の業績としてほとんど表沙汰にはされない箇所だが、後進の一人として、重大事として受け止めるべきものなのだ。

ところで『共存』と『共生』を、ごっちゃにして話をする人がいる。これは明らかに違うのだ。前者には『生存』の響きがあり、翻って『生き残る』というようなニュアンスは濃厚だ。そこから『究極の優勝劣敗を前提とする』響きは、(どうしても)消せない。

一方、『共生』。これは文字通り『共に生きていく』のである。お互いを尊重し、譲るべきは譲り、力を合わせるべきは力を合わせる、という具合だ。つまりは、他者へのいたわりを自分に優先させることが大前提なのである。調和の理想を追求しなくては到底叶わない環境だ。『無住処涅槃』を理想とする、大乗仏教の菩薩に重ね合わせるべき箇所だろう。

聖徳太子が『篤敬三宝』を言われ、『神仏儒三教』を掲げて古代日本社会を指導されたことは、遠く離れた、後世の時空に生きる私たちが、『調和』を前提とする『共生』を考える上で、参考にすべき事柄が多くある。

聖徳太子ご在世の約270年後、弘法大師によって請来された曼荼羅。厳然としたヒエラルキーと、それとまったく同時間軸でそこに在る、完璧な平等な存在が織り成す、広大無辺の宇宙観を指し示す大日法界。それを目の当たりにした人たち…。

無論、神変大菩薩はその時にご存命ではなかったが、その役行者に私淑していた『大乗仏教の学侶』聖宝理源大師は、その大曼荼羅を前にして、胸の高鳴りをどうにも抑えられなかったに違いない。

その真理について正しく受け止めた人ならば、私は、たとえばミッションを錦の御旗にした、かの宣教師らが行ったような『土地の精霊に対する駆逐行為』だけはしないと思うし、少なくとも正しく験門の心を頂く人ならば、そんな蛮行を己が行為の中にしようなど、夢想だにしないものと確信する。

なぜならば、修験道とは、大慈大悲の心を頂く、大乗仏教の菩薩信仰実践の発露なのだから。それが巷に流布する呪術行為、それだけに拘泥するような、そんな狭い世界観に閉じ込めてはいけないのだ。もっともっと大きな広がりをもつ、わが国の誇るべきsyncretism(混交宗教)であり、即ち、『(敢えて)実践第一を旨とする』(*)大乗仏教の一大信仰体系ということなのである。

ここには仏陀釈尊以来の、東洋の英知/至宝の結実がある。一点の曇りもなく、人類のあるべき共生の未来図が示されているのだ。

(*)神秘直感という概念は、大乗仏教の法匠『ナーガルジュナ/龍樹菩薩』の般若空を語る場合、決して見落とせないことは言うまでもない。言語や文字を途絶した世界にあって、初めて成就するものであることは、学論としての大乗仏教“学”の限界を悟った人たちの目指すべき高みであった。宗祖大師がその高弟らを悉く南都諸大寺に学ばせ、さらには若き日の修行時代を過ごし、壮年期に到っては、東大寺学頭にまで昇り詰めた聖宝尊師の事跡からも、よく思うべきである。