蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

崇徳天皇のこと

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実は蛇瀧から帰って後、ひどい腰痛に見舞われた。歩けなくなるようなものではないにしろ、『これは久し振りの痛みだよ』と相成り、まず半跏坐が出来なくなっていた。何しろ床に腰を下ろすと、坐骨神経痛よろしく、尾てい骨から頭のてっ辺に向かってビンビン響くのだ。

高尾山蛇瀧については、ずっと以前に記したとおりの経緯もあるのだが、『アンテナが研ぎ澄まされる分、ただでは済まないだろうな』くらいは覚悟していた…。やはりと言うべきか、『その瞬間』は、何かにドーンと追突されたような、そんな感覚が身体に残っている。

ところで―――、私の場合は行場に赴く前後で、体調に異変をきたす場合のあることを告白せねばならない。それによって、まずはその場所が自分にとって(とても結びつきの強い)有縁の行場であること。そして、その周辺に隠れている自分自身のまだ気付いていない、幾つかの有縁の事象について、(まさに)身をもって知るようになるのだ。

而して、実際こんなことが続いていたら(頻繁ではないにしろ)身体がボロボロになってしまうと、愚痴ともつかない冗談を言いつつ、ひとり嘆息しているところだ…。

因みに人はこれを、『もらってしまうんですね(!)』と、とても分かりやすい“業界用語”で説明されるようである(苦笑)。いずれにしろ、行者としては相変わらずの『未熟者』であることには違いない。

修行生活三昧の罪滅ぼし(?!)というわけではナイが、腰痛を誤魔化しつつ、勝沼ぶどう郷に日帰りの小旅行に出かけ、その帰りがけに立ち寄った新装間もない駅ナカの書店。何気なく眼に飛び込んできた本があった。

● 竹田恒泰著『怨霊になった天皇』(小学館2009)

『とりあえず買ってみようか』と、前から目を付けていた本をいきなり書棚に返した(⇒それは易占関連の本)。こんな風に買う気になったこと自体、今考えてみると不思議と言えば不思議だが、巻頭写真で、坂出市にある白峯御陵(崇徳天皇陵)に平伏して言上する著書の姿を拝見し、これは相当の覚悟であろうと感じて購入することにした次第だ。

ともかく早速、ザーッと読み進めた途端、すぐに『あっ、これだったのか』と直感した。

★ この本は、著者/竹田氏(宮様)の言葉をお借りするが、『霊的な…』という形容詞が相応しい。

脅かすわけではないが、この本を『その筋の感度の高い人(?!)』が手に取ると、かなりの衝撃を受けるのではないかと思う。一昨日、いつもの整体院のS先生に受診したところ、『あれ~、捻じれてますよ』とのこと。二年前の本山の一件ではないが、『またか…』と思ったところである(苦笑)。

この本の最後の章では、祇園『吉うた』女将Tさんにまつわるエピソードが紹介されている。ここでは崇徳天皇が寵愛された女御『阿波内侍』の…、ということだけに止め、詳細は本を買って読んで頂きたい。この部分で『思わず落涙してしまった』とだけ申し上げておく。

そして雨月物語のそれと、西行法師の次の一句が紹介されるのだが、法師の別なる一面を垣間見たような気がして感銘を受けた。正直、『西行殿、貴殿を見直しました(!)』と言っても良いくらいだった。さすがは鳥羽院北面武士だった人である。武人として、臣下として、それぞれにとるべき道に従い、よくぞ先帝に諫言申し上げられたと。

『よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん』

たとえ今生にあって天皇として生まれようとも、神仏の御前にあっては誰しも平等なのであるという教えが、この和歌の底にある。天子たる者、たとえそれが如何なる事由と過程を経ようとも、死して後、その神仏の対極にいますことを誓うとは、一体何事でありましょうや(!)、という衷心からの叱咤は、この和歌の行間に見え隠れするものであることは言うまでもない。

殿上人に対する諫言など、当時としては、まさに決死行為であろう。しかも崇徳院におかれては、激烈な怨みを呑みつつ憤死して間もない時だった。何しろ荼毘の煙がちっとも上に向かわないというのだから。西行法師も、白峰寺の御陵を前にした読経回向では、ある意味覚悟したのではなかろうか。

さて―――、ここで私ははたと気付き、そしてそれらが有機的な結びつきを以って現前したことに、粛然とした思いで向かい合っている。

毎朝、密かに拝礼してきた職場の鎮守『金毘羅権現』にあって、崇徳院が讃岐にあって参拝を頻繁にされていたこと。奥社へ向かう参道には(なんと!)崇徳院を祭祀した白峰社があり、中学生の時に家族旅行でお参りしていたのだ。とんとご無沙汰して忘れていたのだが、ただ、この崇徳院を併せて奉祭申し上げた讃岐国金毘羅宮は、その後、一層の隆盛を誇ったと言われている。さらに、京都祇園にある安井金毘羅宮崇徳院主祭神とするそうだが、その金毘羅宮を境内に有する白峰神社の地主神/精大明神は蹴鞠の神さまであり、転じて今は日本サッカー協会の神さまなのだとか。自分が野球よりもサッカーに熱中していたのは、このせいか。崇徳院がご存命なら、間違いなく日本サッカー協会の名誉総裁を引き受けられるだろう(笑)、そう確信した次第だ。

ご参考だが、父帝の鳥羽院御願寺醍醐寺である。それによって28年間もの長期政権が護持され、そして、その鳥羽院こそが、崇徳院にとって愛憎相半ばする『偉大な存在』であったこと。鳥羽院におかれては、さらには自坊にて宗祖大師、神変大菩薩、開山理源大師に続けて併せ唱えているところの、覚鑁興教大師の終生の後ろ盾でおられたことは、真言末寺のさらなる末徒の身とは言え、名状し難い感慨を覚える。

その覚鑁上人の教えを改めて詳らかにするつもりで、私はここのところずっと、上人の説かれた『弥陀即大日』を観じて、滅罪回向の祈りを繰り返している。平成の御世に再会を果たされた、その阿波内侍殿の証言によって、『もはや怨霊ではなくなっている』とは言え、宿業として800年近くもの間に堆積したエネルギーは甚大である。著者のPCが4台とも壊れたとあるが、それが放射されたときの衝撃だけは、実際に受け止めた人にしか分からないのではないかと思っている。

最後になったが、『じっと坐っている生活ばかりだったろう』と感じ、心中深くご同情申し上げているところだ。理由らしきものはない。ただ、言えることは冒頭で述べた通りである。その脳天に突き上げるような痛みは、保元の乱で(愚昧な?)後白河法皇に味方した平清盛と、その平家一門を冥土に送る働きをした、崇徳院の尖兵たる『異形の眷族たち』によって伝えられた“真実”だったのかもしれない。

★ そこからもう一言だけ記すことを許されるならば、『金毘羅さまに願掛けするなら、必ず何かひとつで良いから、キッパリ断ち物をすること』である。

それは、才気煥発のご性格であるにもかかわらず、敢えて、悉くを封印して没した崇徳院に対する、篤い共感に通じるものになるものと確信する。今生において生を許された私たち。院のされたこの様なストイックなご生涯をシッカリ奉じたならば、同じく金毘羅権現に願いを託された崇徳院のお気持ちを汲むことに繋がるのではないか、率直にそう思う。崇徳院は、今でも金毘羅宮を外護されておられるのだ。

院への立派なご供養になるものとは何か―――。ここまで記してみて、耐え忍んでも貫く『至誠の祈願』ではないか。そういう気持ちで胸が一杯になっている。

『奉為南無崇徳天皇尊儀増進仏果菩提』

合掌