金毘羅大権現
私のほとんど霊感に近い直感が正しければ、うちの部署の信任のM部長は、金毘羅さんの逆鱗に触れたと思う。これは、先の拝礼のため、金毘羅宮にお参りした時、その信任部長の拝礼の所作に不備があって、後ろから『アッ』と思ったことがあり、それはそれ以来の、ずっと懸念していたことの延長線上にある。
実は、船舶関連のことで民事訴訟を起こされている。
それを知った私は、自坊で密かに許しを請うた。が、今朝拝んでいた時、『ならば代わりにオマエがその責めを負うのか』と、例の声なき声があって、それもとても厳しい響きがあって、思わずたじろいでしまった。
恐らく、M部長は胡散臭く思っていたのだろう。無理もない。前任のI部長のそれは、行者世界顔負けの“本気モード”だったのだから。
但し、どこかの国の指導者の安全保障政策に対する認識が、その一貫性を欠いたことで大迷走してしまったように、ここに至っては、大きな困惑を金毘羅権現の諸眷族に与えてしまったことに対しては、申し開きは許されない。それが神仏との約束であり、それによって我が部署だけでなく、会社全体が、過去に大きな業績の果実を得てしまったからである。
これをどうやって伝えようか。この金毘羅信仰を秘かに強く支持している部代に話をしてみようか…。
ご参考であるが、金毘羅権現の諸眷族とは、それはそれは、とても強力である。以前、このブログでもご紹介した崇徳天皇が、ご祭神のお一人に名を連ねておられるのだ。その来歴と崇徳帝の思いの強烈さは、竹田恒泰著『怨霊になった天皇』(小学館 2009)に詳しい。このような方のおられることを知ったら、その態度を正す努力をしなくては、身がいくつあって持たないであろう。
だから、ビジネスの攻めに対しても、守りにも対しても、大いなる利益の援護をされるパワーなのだ。
多分だが、本当に凄いレベルの事態にまで、M部長は行ってしまうかもしれぬ。ご神霊の前では、個人の信条とかを云々する前に、まずは敬礼し、殊勝な心がけを示すことが肝要である。ご神霊に願をかけた場合、たったそれだけのことを、自身の小さな見栄とかプライドとかの為に怠ることは絶対に禁物である。とんでもない事態が身に降りかかることを、よくよく注意すべきである。
金毘羅さまのことであるから、恐らく本当のお叱りをされることだろうが、その前に穏便に済ませられないか、今とても、それも大真面目に思案している。無論、『霊的な鎮め』も必要であるが、それと同時に、ご神霊に向かう人としての礼節の重要性を、何とかして喚起するしかない。