蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

原風景

今回は、『火渡り』について、『私見を交えての紹介』を…。但し、少し堅苦しい話を通じてしたいと思います。そもそも、このブログの所属するカテゴリー『哲学』です。それに相応しいものになるよう(少しは)努める所存です(笑)。

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『火渡り』という呼称によって、それが『火祭り』としてイメージされることがあり、結果としてパフォーマンス的なイメージをされることは、当然です。『ドント焼き』のような民族的行事と密接に関係しているとの指摘は、別な意味で重要だからです。実際、師僧のお寺における火渡りは、横浜市民族無形文化財に指定されていることからも、その意義付けの一端について窺うことは可能でしょう。

それにも係わらず、ここでは、修験道修行が本来的に想定する原風景は、『秘密護摩供』であることを主張しようとするものです。南都諸大寺において顕教を修めた聖宝理源大師が、吉野大峯に入山されて始めたとされるそれら諸作法については、とりわけ密教的な意義付けが施されたその時点から、『成仏』という人間の内面に向かうベクトルが付加されたことは絶対に無視できない箇所です。その意味するところは、如来衆生のいます『秘密法蔵の開悟へ向かう道』であり、『世間の一切戯論を遮断した浄所』に直参して打ち込む修行に直結する性質でもあることからも、顕密両教を研鑽した理源大師に拠るならば、その意義付けの出発点において明白であります。

それゆえ、『柴』を焚き木として、或いは、焚き木を『採』って灯す浄火とする。山中にあって、供物の限られた中で、できる限りの支度を行い、苦練修行に伴った熱誠の祈りを『秘密護摩供養法』という儀礼に込めて、(絶対的非公開のうちに)不動尊誓願たる『火生三昧』(かしょうざんまい)に住して修行する。私自身は、本義としてその原点を問われたような場合、先ずはこのような回答を準備したいと考えます。
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ところで―――、『山の修行より、里の修行』という言葉が、修験道世界にはあります。この言葉は、(密教信仰を)大乗仏教として奉じる人(=当山派行者ならば然り)は、決して蔑ろにしてはならない戒めです。深山に独り篭ってする修行は、所詮は小乗の修行であるとするのは、その根底において奉じる密教信仰が、大乗仏教信仰の精華であるとの自覚からであります。(⇒ ここに到って、理源大師が顕教を修めたもう一つの大きな理由を、よく知る必要がある)

山の霊気を十分に取り込んで得た験力を、先ずは、里の人々に幸あれとして還元する―――。これを大乗仏教における『菩薩』として、真言密教においては『理趣経・百字偈』で述べる『菩薩勝慧者』を自覚した者として、『上求菩提』(じょうぐぼだい)から一挙に転じた『下化衆生』(げけしゅじょう)の延長線上に存在するその真精神に思いを馳せて、個々の行者においてはハッキリと捉え直さなくてはいけません。

一般に、衆目の面前で公開されるものでは、ある意味大仰とも言える所作の連続です。弓や刀や槍など、武具を前面に持ち出し、法螺貝や錫杖などの音だけでなく、大音声で発する読経・真言念誦などは、『静謐の祈り』を好む人たちから、(大いなる)違和感を以って迎えられることは決して不自然ではありません。

しかしながら、『娑婆の苦海』において、『絶望』の二文字を垣間見た人が、これらをどのように受け止めるものか―――。この視点は思いのほか、(それを知らないで済んでいる人々からは)等閑視されるのが常であります。告白すれば、私もかつてそうでした。そうです、人は曼荼羅の最外院の向こう側にある(茫漠として無限大に広がる)漆黒の闇から、出来る限り目を逸らしていたい存在なのです。それは人情でもあり、言い換えれば、人とは、それほど強くない生き物であることの証左であります。

それにも係わらず、現実社会において『奇麗事では済まない事態』に追い込まれるような体験をした時、このようにして激しく、時に熱狂的とも言える所作に、自分の心は却って慰撫/激励され、(意外にも)熱い気持ちが沸々と湧きあがって、滂沱の落涙を禁じ得ない不可思議な感覚…。これのあったことを、私は、ここで敢えて申し上げる必要があるでしょう。

柴/採灯護摩供では不動尊を首座とする『五大明王』を勧請します。多く知られるとおり、五大明王の持物には武具があり、しかも猛烈なる大火焔を放って、周囲を圧倒的に威圧します。例えば降三世明王が、足下に大自在天と妻のウマ妃を踏みつけている姿は、その圧倒的な制圧力によって、『無明』から生じるところの『三世に渡る魔軍煩悩を降す』ことを、如実に示すものです。そうでもしなければ(一度でも苦海に足を取られた人ならば知ることですが)、そこから脱出することなど到底叶わないものなのです。

そして…、火渡り修行とは、一体何のために修行されるか―――?

此処に到って、この単純な設問こそが、里における火生三昧の意義付けとして、非常に重要な意味合いをもつことになるのです。つまり、山中における火生三昧と、里のそれとは、明らかに立つ斜面を異にすることが鮮明になる瞬間だからであります。

大乗仏教の説く菩薩とは、その両端を常に往復し、とりわけ当山派修験道では、その実践を『不二一乗』として『(先鋭的ともいえる)統合化の世界観』で捉え、且つ強く意識して、『悟り』(山=金剛界智慧(智))と『救済』(里=胎蔵界=慈悲(理))の全く正反対(!)の活動に向かうことを、それぞれに宿命付けるのです。

それゆえ、『里(胎蔵界の道場)にあって、自身は今、大峯山中という金剛界の道場にあり』と強く観念して、儀礼の執行に臨まなくてはいけません。これ(=不二一乗の祈り)を欠けば、所詮は『コスチュームプレーによるポップな火遊び』と言われても反論は出来ません。具体的には、大いなる失望感漂う儀礼執行を、道場全体において味わうことになるでしょう。こうなった場合、何もかもが不幸であります。

護摩秘法を媒介として、行者と衆生が交錯する里の道場。ここでは、日常生活の甘い香り/味わいが強く否定される局面があるとするのは、しかも、それを敢えて隠さないどころか、表沙汰にして人々に強く示そうとするのは、このような意義付けがあって初めて成り立つものです。少なくとも修行者は、此処のところをよく心得なくてはならないと思います。尤もご覧の諸賢にあっては、これ以上の説明は不要なのかも知れませんが…。

柴・採護摩供/火生三昧修行。即ち、『火渡り』修行とは、そのような側面=日常を一瞬にして遮断する世界を、人々に(ほんの少しだけかも知れませんが)実体験させる祈りとも言えます。否、本来的にはそうでなくてはいけないのです。この境地をもっと知るべく、私たちは、ひたすら実践しなくてはいけないのです。

『一切戯論を断絶した浄所における実修』に重大な価値を見出す般若空(三論中観)の教えに直結するものを観じて、その向かう先に『如来智慧から生じた慈悲の実証』に係わる神秘直感による恵みを、修行者と大衆が一緒に悦び合うものとする―――。その瞬間、火渡り道場が、即ち『秘密加持』による功徳力を生じたところの、一大法界として現前するのです。ここを良く知ることが大切です。