蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

手のしびれ

パーティーの帰り、『土日とか、何をしているんですか?』と、職場の同じチーム内のもう一人のリーダー格の同僚から聞かれて、思わず『護摩焚いてます』とか答えたのだが、『それで良かったんだ』と、改めて思い返している。

護摩炊きですか…』(この表現形式は正確ではないが、ひとまず置く)とあって、『やっぱり、そういうことしなくちゃダメだ…』と、半ば自嘲気味に、そして、何だかちょっと羨ましそうな(?)表情で、呟いていた同僚。実際、彼氏は、連日の午前さまで身体を壊しかけているのだ…。その彼の持病が再発してしまい(何でも筋肉全体が固くなるらしい)、朝まったく起き上がることが出来ず、二日間ほど、否、二日間も!だ、休んだのである。

百八支を無心になって投入する―――。護摩供のクライマックスとも言える段階では、護摩の炎はこれでもかとばかり、大きく音を立てて噴き上がり、まさに護摩本尊/大日大聖不動明王誓願に相応しい場面が出現する。

そう――、今日もまた『護摩焚いてました!』だったのだが、己の右手の甲は、まだその時の炎の熱さをしっかり覚えていて、少しだが痺れている。そして、額から頬にかけて、熱風を数秒間だけかも知れないが、まさに己の肉身が受け止めた箇所…。炎の熱さを我が身に刻んできたことの意味…。行者に問い掛けつつ、行者をして内省させしめる『何か』を発しているようだ。

娑婆の諸諸を背負って、護摩道場にこもって独り本尊さまと向かい合い、炎を上げて至心に拝む。『一切の怨敵魔怨を焼き尽くす』こととは、気に食わない他人を打ち倒すとかの(愚かな)意味では全然ナイ。『当たり前だ、全然関係ないのだ(!)』。
ひとえに自身が背負うもの全てを(有縁の関係一切を含む)、御仏の智慧の光を観じつつ、ひたすら浄めていく祈りに他ならない。一切煩悩を焼く炎が、御仏の光に照らされて加持された瞬間、智慧の光に転じていくことの意味は、非常に重大な意味をもつのである。

私を導いてくれた師僧、先徳方の、ともかく護摩供の祈りに打ち込み続けたその気持ちの一端…。今日は何となくだが、それに触れたような気がした。