蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

宮沢賢治

~7月12日(木)付け産経新聞WEB SITEより~
雨ニモアテズ』。『岩手県の小児科医が、学会で発表した宮沢賢治『雨にも負けず』のパロディー。どこかの校長先生の作品らしい。』(記事より抜粋)

かつて私は、賢治の『雨にも負けず』を、二回ほど暗唱する機会をもった。一回目は小学生の時だ。母から暗唱するように言われた時。母は大書して壁に貼り付けて、私によく読むように教えた。無論、本当の意味など分からずじまいだったが、長じた今、しみじみと詩の意味を噛み締めているところだ。

二回目は、大学の一般教養の授業だった。これが期末試験に出た。ともかく暗記したものを、吐き出すようにして答案用紙を埋めたことを覚えている。

今朝、一番に目にした『雨にも負けずのパロディー』。これが世の中の実情なのだろう、間違いなく…。勿論、その作者の校長先生が悪いわけではない。そうやってパロディー化して、シニカルな態度を取りたくなるくらいの惨状。日日接する現場担当者の率直な気持ちの吐露と受け止めている。

だからこそ…、尚更なのだ。私はそのような時勢を、断固拒否したいと思う。賢治の詩に散りばめられた、人としての『誇り』。『たとえ身にボロを纏おうともココロは錦なり』を、私は唄の文句で終わらせるたくないのだ。金言として押し戴くことに躊躇はしないつもりだ。

そして―――、私はお会いしたこともないが、岩手の教場に立たれた賢治先生に、『何と申し開きしたら良いものか』と、何故だかとても申し訳なく、情けない気持ちで一杯になった。しかも、私が心密かにとっておいた自分の宝に向かって、まったく臆面もなく、唾か何かを吐きかけられて侮辱されたような気持ちになり、悔しくて涙がこぼれそうになった。『雨にも当てず』だと?!(怒)。こういうパロディーが堂々とのさばるような社会。絶対に間違っている、と思う。

<Quote1>
雨ニモアテズ 風ニモアテズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
意欲モナク 体力モナク
イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ
朝カラ アクビヲシ 集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ
リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ
東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ
西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ
南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ
北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ
日照リノトキハ 冷房ヲツケ
ミンナニ 勉強勉強トイワレ
叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ
<Unquote1>

念の為、賢治の本当の詩を以下に掲載させて頂く。宮沢賢治は一方で熱心な法華経信仰をしていたことが知られている。法華経には、『常不軽菩薩』(じょうぶぎょうぼさつ)という人が登場する。人の真心に合掌礼拝することを、石礫を投げられようとも諦めなかった。『真心』即ち『仏心』であり、密教ではこれを特に『清浄菩提心』と呼ぶ。密門/験門の初門は、これを拝む実践、即ち『発心』(ほっしん)という大事から始まる。これを修行として具現化したのは、天台の法匠/相応和尚である。千日回峯の捨身の修行は、常不軽菩薩をモデルにしていることは、広く知られるところだろう。

私は、この常不軽菩薩の浄行を嘲笑う態度に、決して与することはしない。『バカみたいだ』と笑いたいなら、或いは無視したいなら、そうすればよかろう。但し、たとえ誰かが見ていなくても、人としての誇りを忘れず、黙して実践すること。宗派は違うが、高校生の時にテレビでお見かけした酒井雄哉師の姿に感動したことが、自身の記憶の中でまだ新しい。

見返りとか、そういう卑しい気持ちから、少しでも離れるよう一生懸命努めてみること。実際、これを忘れような感性をもったら、もはや人としてはオシマイだ。

<Quote2>
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
<Unquote2>

『祈り』は、決して気休めで終わることはナイ。至誠の実践と深く係わり、最後には、その人の『真心』を神仏に伝えるチカラをもつ。賢治の詩には、祈りから生じる力強い響きがある。どうか読む人は、よくよく味わって欲しいものだと願う。