蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

呪いの研究

以前に『呪いの研究 ~拡張する意識と霊性~』(中村雅彦著:トランスビュー)を、話題の一つにしたことがあった。思いのほか、この本を知る人の多いことを知った。この本は、受け手の好悪が分かれる書籍として、その代表選手となりつつあるような感がある。

ある人はタイトルを見た瞬間、一気に引く。恐らく、義姉がそうだろう。『呪い…?!、何それ!』だろうか(苦笑)。そういう得たいの知れない、気味の悪いものは…、になるか、ともかく義姉にとっては向けるべき時間/労力の対象ではないことだけは確かだ。

一方で私のような人がいて、食い入るように読んだ/読む人。パーソナルな神秘体験に関して、『一体どういうことだったのだろう』を、あるレベルまで突き詰めないと気が済まなかったことから、この本を目にして己を納得させることを試みた/試みるタイプ。

信仰とは、安心を説くことに繋がる。これ自体、否定されるものではない。ところがである。とにかく『安心』『安らぎ』など、静寂さ(?)に係わるキーワードを、これでもかとばかり、やたら振り回す女性のHPを拝見したことが過去にあって、正直なところ、今もって拭いがたい違和感の記憶が頭から離れない。『ここでは、そんなことよりも、一緒に安らかに話をしませんか』みたいなタッチに対する、『どうしようもなく、且つ、救い難いくらいの違和感』だった。

『呪いの研究』では、著者である中村先生の履歴=拝み屋宮司にして大学教授が災いするせいか、呪術行為のルポの方に目が向くことだろう。それが普通だし、それもまた人情だと思っている。

それで私がこの本の記述の中で出会った『ケン・ウイルバー』の思想によって、件の『安心』『安らぎ』を連呼しなければ気の済まないHPに対して、ひとつの見解が形作られつつことになった。即ち、米国人思想家/ケン・ウイルバーが警鐘を鳴らしている『超個と前個の混同によって生じる弊害』とは、『全体主義的に没入する社会となっても、無批判に許してしまう感性』、それである。

これは所謂『ニューエイジ』などと呼ばれる『新霊性運動』と密接に係わることである。よく『前向きな考え方』(positive thinking)なるものを、私たちの社会では、何気なく、まるでそれが善なることであるかように話している人は多くいる。それによって『魂の向上』のため、踏むべきステップであることばかりが強調され、酷くなると『あっけらかんと』、それを言われることすら受け止められない状態の人なのに、無慈悲にも言い放つ態度が少なからず散見されている。

『超個』と『前個』の違いであるが、私見となるが、私はその決定要因として『自分に係わるネガティブな要素に目をつむらない』ことではないかと思っている。これは、修業体験の中で直感したことにかなり係わっている。この部分では当たり前の話に聞こえるかも知れないが、この本が紹介した『シャーマンの危機』の重要部分とは、『意識の変性と拡張』がその人の中で本格的に生じた場合に起こる現象の主要部分でもあり、しかも、その人の『オモテの顔』にはウラ側が確実にあって、そこでは、とてもネガティブなものとして切り捨てたいと心密かに願っていることが、実にたくさんあると指摘していることなのである。

『黒々とした情念』としか表現しようのないココロの闇。ここを照らすことを、私たちの日常生活は、想像以上に忌避するものだ。密門/験門の修行をすると、それを我が身に置き換えて実感することが可能だ。当然、『強烈な打撃』を我が身に受ける期間が生じるが、それを信仰の実践、即ち『祈り』を通じて受け止めることが許される。

そういう私にとって、それゆえの『呪いの研究』だったのである。