蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

施食作法~略法の意味するところ~

その後、週末になると拝んでいる。ものの10分もあれば終わってしまうのだが、そこに込められている行法の主目的(コンセプト?)は、やはりと言うべきか、意味深だ。

面白いことに、施餓鬼を自坊となるマンションのベランダで拝むようになった途端、野ネズミが侵入したらしい。ベランダ・ガーデン(!)の球根類をかじっていった。実際今まで、そんなことはなかったのだが…。

マンションという場所であるから、『写食』の箇所では、少しばかり工夫が要るということだ。文字通りにしてしまえば思わぬ訪問者のあることが判明したが(苦笑)、そんなことよりも、彼らのエサ場と勘違いされては、マンション近隣住民の方々に迷惑が及ぶ。注意が要るのだ。

この施餓鬼作法には、HN先生の口伝箇所がある。さらに、師僧からの口伝がある。

前者は、その箇所になったらするべき観念と動作について。それは意外な箇所に、意外な動作として設定されている。

次に後者は供物とするもの、そして、『拝むべきシチュエーション』についての諸注意である。

口伝であるから無論、詳細は非公開とするが、これらに(根底で)共通することがあるような気がする。

それは『略法』という言葉に大きく関係する。

この略法の『略』であるが、単純に大雑把なことと捉えると、大きく間違うと思う。この世界ではしばしば注意されることだが、『略するには略するなりの深い理由があるのだから、素直に、否、時に愚直なくらいに謙虚な気持ちで臨むべし』なのだ。

それが如何なる修行であろうとも、どのような時も『如法』に修することが肝要であるが、一方で『シチュエーション』という意味から、逆に『きちんと略されてなくてはならない』という意味を忘れるべきではないと思う。

だからこそ加行の修行だけは、どんなに時間が掛かろうがキッチリと拝んでおかなくてはならず、それがあっての略法となる道理を知ることこそ、この場合とても大切なのだ。

ともあれ口伝に従えば、その場に臨めば、『もはや次第書の文字など見えない』とだけは言える。本来的に、そういう場所で修するものなのだからだ。それゆえ『略法』でなくてはならないのである。