蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

自我偈

最近、週末の朝のお勤めで気付いたことがある。

真夏なので、マンションのベランダ窓を開けてお勤めしている。前の晩が遅い朝は、それは朝8時~9時頃だったりする。

それで、どうやら隣の方が聞いておられるようだ。実際、『うるさいかな~』と心配して、声のトーンを抑えたりしたこともあった。

お勤めしている時、不思議なもので、自分の背後の動きがよく分かったりする。まるで背中に目がついているみたいだ。退屈のあまりお喋りしている様子もそうだし(笑)、あたふたと動き回っている様子も。

週末のお勤めでは、平日の祈願を前提とする密呪立てのそれではない。般若理趣経の読経による滅罪と、追善のお祈りだ。

出来得る限り『朗々と』を意識しつつ、心静かに、先祖の御霊だけでなく、有縁無縁の精霊に回向することを心掛けて読み進む。

真言宗の法事では、他宗派も概ねそうではないかと思うが、声明を前後に詠唱する。

真言宗では、最初に『四智讃』、最後に『仏讃』を基本とするが、祈る本尊さまや法則、或いは、行者の意楽によって、一つか二つくらい追加することもしばしばだ。

ともあれ、そうやって年中、毎週末、同じように唱えていたところ、いつの頃からか、お隣の方が(じっと)聞いておられることに気付いた。

確かめたわけではないが、恐らく、その方は(ずっと)黙っておられるのだろうな、と。その方にとって、『祈り』に触れる瞬間は、誰にも明かされることなく、永遠に秘すべきものなのかもしれない…、否、きっとそうなのだ。

いつもより少しゆっくりと般若心経。三陀羅尼のほか、所定の段を終えて『懺悔随喜…』の回向文を終わって三礼。隣宅のベランダの雨戸を開け閉めする音がして、その方は部屋に戻られたようだ。

因みにお盆期間中、私は『自我偈』を併せて唱えていた。『真言宗の行者がどうして法華経?』『観音経ではなく、それも、法華経の中の重要経典を?』。

願わくば、訝しく思うことなかれ。

何を隠そう、私の父方の祖父は、淡路島の日蓮(法華)宗寺院の住職だった。共に在家出身の身ゆえ、結縁の宗派は別になってしまったが、その祖父に対しては、拙いながらも回向するに当たって、私なりのメッセージを込めていたのだ。そのための『自我偈』だった。

『こうやって、この僕も人さまのために回向させて頂くようになったよ』

そっと心の中で、祖父に語りかけた。