蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

千手千眼観世音菩薩

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今日は千手法だった。

行法を拝んでいると、妙に騒がしく感じる時がある。それは決して耳にうるさいということではなく、所作の細かいところで『急かされる感じ』があり、微妙に手順を間違いつつ、しかも、それが連続するのだ。

それにしても千手観音を祈る時、この行法ほど魂の深いところにズーンと響いてくるものはない。これは(私の場合)他の行法では決して感じない箇所で、言い換えると、何か判らないけれども、とても深く感動している存在が複数あり、その魂の響きが自分自身にも共鳴しているような、そういう感覚である。散念誦の段になって、本尊真言をひたすら唱えている時、これは非常に鮮明な感覚となって顕著である。まるで己の全身全霊が、その響きで包みこまれてしまういるかのようで、大勢の応援団の中で真言を唱えているのではないかとすら、今日などは感じたくらいだ。だから、全然疲労感がない。

以前から、この『共鳴する感覚』について一体何だろうと考えていたのだが、今の段階で思いつくのは、昨夏から取り組んでいる施食作法のそれではないか…、ということである

師僧のお寺の本尊は、正確には十一面千手観世音菩薩である。私たちは十一面の方ではなく、千手観音を主面として拝んでいるのだが、その師僧から伝授を受けたものが、施食作法である。故・服●大僧上の口伝を含む施餓鬼の祈りを、昨秋の丹沢峰中修行に備え、丁度お盆の頃であったが、伝授を受け、その時以来、自坊マンションのベランダで週末の夕刻、ずっと拝んできた。

『施餓鬼を拝むと、不思議と食べるものに困らない』との伝がある。(新開真堂著/施餓鬼法広述:青山社 2004)

実際、地獄の三丁目で迷いに迷っている諸霊を、それも優しく導く力。これこそ、観音さまの大威力の真骨頂であろう。鬼神となってもがきつつも、一筋の光明を頼りに救われていく様相は、まさに大慈大悲の『蓮華王』の一大利生と呼ぶに相応しい。

今日、拝んでいる最中だったが、次第書の上で、一度黒塗りして消した真言を少しばかり改変/復活させた。自分なりにとても感じるものがあったのだ。千手千眼観世音菩薩の親衛隊/二十八部衆を供養することとは、実は、その施餓鬼の祈りの延長線上に位置するのかもしれない。