蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

千手千眼観世音菩薩~その3~

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昨日(3/21)、『身代り観音法会』の前行のため、再び師僧のお寺に出向いた。時はまさにお彼岸。そして弘法大師御影供の日である。

『夜、拝んでいるといいんだ。朝、昼、晩とお顔が変わるんだけど、夜のお顔が一番いい。』と、師僧が話してくれた。

本尊/十一面千手観音像からは、先年の学術調査の際、体内から『妙法蓮華経・観世音菩薩普門品』と、『梵文・大悲心陀羅尼』の写経がそれぞれ発見されている。元禄十三年、時の住職/隆継法印の手によることが確認されているのだが、そう言えば、最後に歴代先師の墓所に巡拝した砌、チョッとだけ『法印』の墓標の文字が目に入っていたのだが、なぜだか、その後も思い出してばかりいる。

振り返ってみると、この千手観音法をキッチリ拝むことをさせるために、仏天はこの私に、施食作法の伝授を受けさせたのだと、しみじみと思うことしきりだ。

そうでなくては、何となく(?!)にしろ『観音経秘鍵』を暗誦しなくてはならないと練習したり、或いは大悲心陀羅尼をコピーして次第書に付け加えるなど、(この私自身が)自分勝手に思いつくはずもないし、きっと『そうせよ』の指図なのだろう、そう受け止めている。

それにつけても、大悲心陀羅尼の作法を下礼盤の後に修して一切衆生に回向することとは、詰まるところそれらが、観音さまの大威力を信心した人々の深くて篤い、一々の思いへのメッセージとなることを思わずにはいられない。

すでに肉体を滅してしまわれた人々への追悼、そして敬意の念。現世を生きる後進の一人が、千手観音さまを日日に礼拝された、それら大勢の壇信徒方の熱い思いに応える行為。これが如何に大切であるか、そこに気付くための方便。改めてそういう大事に触れたこと。今さらながら深く感謝している。

私は、そうだ、このお寺…。千手観音さまの慈眼を感じながら、ひたすら加行することを許されたのだ。これからは、私がその仏恩に感謝して、何かしら自分のできる最善をお返ししたい。そのようなことを思って、山門を辞した。