蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

大師信仰~五大に皆響きあり~

昨夜、家内と話をしていて、フッと思ったことがあるので、一言記したい。
 
真言密教の代表的な信仰形態は、言うまでもなく『大師信仰』にある。だが、今私は“代表的な…”という注釈を敢えて行った。
 
人は時に、信仰の中に狂信的な妄信を見ることがある。宗教教義とは、所詮人の作ったものであるのにも関わらず、それを金科玉条として、他からの一切の忠告すら受け付けないのならば、まさに不遜な態度として強い嫌悪感をもたれる―――-、自明の理である。
 
しかしながら、一方で信仰とは信心という実践を求めるものなのであり、真言密教は然り、当山派修験道も然りである。そこには、一点の曇りなき清浄菩提心を伴う絶対的な『信』がなくてはならないし、それを体得していくところに、私たちの信仰生活の大事がある。
 
ところで、私たちの弘法大師に絶対的な『信』とは、『お大師さまはこう言った、だから!…云々』というような、蘊蓄の言い訳をするものではない。
 
★ 如来の説法は必ず文字による。文字の所在は六塵(ろくじん)その体なり。六塵の本は法仏の三密即ち是れなり。五大に悉く声響を具す。一切の音声は五大を離れず。五大は即ち是れ声の本体。音響は則ち用なり。
(声字実相義)
 
この場合、『文字』とは、人間の発明した文字でもあるのだが、それだけに留まるものではない。時空を超えて到達する仏の聖語、即ち衆生が五感にて感知し得る“真言の音響”を含み、それは世界の存在と不即不離である。言葉そのものが存在(モノ)としてあるのだ。
 
それゆえ、加持/祈祷の視点を中心にする生活の人から言えば、虚空に遍満する如来加持力の源である、法界力そのものを意味する、と言って過言ではなく、真言行者としての実践に向かう人にとっては大切な教えになる。私は、この教えを行者にとっての福音として捉えているくらいだ。なぜならば、この教えを理解できれば、たとえ凡人であっても、加持/祈祷の実践は成立するからである。真言念誦の大切さ、有り難さは、この教えによって確実に生かされる。
 
つまり、『お大師さまがこうだから…』で、自らをガンジガラメにした/することは、教学理論から言ってあり得ないということを言いたいのである。もっと言えば、『弘法大師原理主義』のような態度、つまりは何でもかんでも宗祖大師に帰してしまう実践はあり得ないし、事実、先師方にもなかったし、これから先もナイということを、である。
 
真言密教では、古来、『教相』と『事相』の二つを鳥の両翼の如くに考えて、怠りなく併修することを求めてきた。件の見解とはおそらく、何らの実修を伴わない教え一本に絞りすぎた地点に拘るならば、そのような“窮屈な見解”に行きつくのではないか、と想像している。
 
では、どうやって『その視点から離れるべきか?』。その答えとは、即ち、『事作法の実践』になろう。実際にやってみて、自らの心の源底にありのままに証することである。
 
さて―――-、事作法の実践では、『その瞬間、すべてを捨て去る覚悟が要る…』と言っても、やったことのない人にはピンとこないだろう。しかしながら、その実践には歴史的な発展の経緯があることを知ってもらいたい。
 
それは、『事相流派の分流』という形を取りながら千年以上にも渡ってバトンタッチされ続け、娑婆世間での利他方便の大事となって厳格に継承されてきた事実なのであり、極めて重要な確認されるべき事柄である。
 
驚かれる人もいるだろうが、『越法罪の咎め』を敢えて恐れつつも、それでも『果敢に逸脱してきた歴史』が、真言密教信仰にはあるのである。本年、真言長者となられたM長大僧正が、かつて学習研究社刊の般若心経の解説本のインタビューに答えて、『密教はプロの宗教なのです』と、非常に刺激的というか、ある意味挑発的な応答をされたことがあった。しかしながら、その応答の趣旨については、弘法大師以降の先師方のされた実践の歴史を紐解くならば、その人は大方了知されるに違いない。
 
繰り返すが、真言密教の信仰体系にあっては、狂信的な妄信は(理論的に)起こり得ない。不遜な言い方をお許し願えば、空海弘法大師は、『そうなるような不完全な理論体系に係わる制度設計をされなかった』ということなのである。
 
『南無遍照金剛』
『南無聖宝尊師』
『南無神変大菩薩
合掌