蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

滅罪と回向の祈り~豊饒の大地~

『何だかよく分からないけど、自分の人生軌道がずれてきているような気がする…』。
 
こう相談される人がいた場合、私は『一度、ご先祖さま、或いは、お身内で亡くなった方のことを思ってみて下さい』と申し上げることにしている。意外かもしれないが、ご祈祷する前提として、願主さんの祈願内容に関連して、それくらい強く感じるものがあった/あるからである。
 
★ それにしても、ご先祖さまのことを完璧に忘却して生活しているお宅が、昨今異常に増えているような気がする。
 
少なくとも私が小さかった頃は、祖父母の家には仏壇があり、あれこれお給仕していたし、それはまったく日常の風景であった。朝になれば『○△ちゃん、ご飯を上げてきて』とか、『はい、お茶を上げてきて』とか、お土産があれば『先ず仏壇にお供えしてご挨拶。はい、お下がりを頂きましょう』、そんなことを祖母と会話した記憶がこの私にもあり、その時はよく分からなかったけれど、今となっては無性に懐かしく、有り難いことであった。
 
そこには現世に生きて此岸にいる家族と、彼岸に渡った一族郎党との絆がしっかりとあって、少なくとも、目には見えないからと言って『忘却する』などという無礼だけはなかった。
 
ところが私の両親の世代くらいから、つまりは日本が戦争に負けた後、『民主主義』とか『人権』とかを、“妙に”“too muchに”(⇒このように敢えて言うが)心身にみっちりと摺り込んでしまったと思われる都会を中心とする世代くらいから、仏壇も神棚も、家の中から追放してしまったような気がする。そうすることがとても進歩的な態度であるかの如く、旧弊の否定という美名の下に、『戦後の廃仏(廃神)毀釈』が始まったのではないだろうか。
 
『家の中が抹香/線香臭くなる』とは、近代的な文化生活をする人たちにとっては、まさにキーワードである。香煙のまとわり付く先祖供養などと言う旧弊は、真っ先に唾棄すべきものであり、決して見上げるようなものではないことを、この一言が端的に表現すると言って良いだろう。
 
かく言う私も、今から20年くらい前までは『そういうものなのだろう』と、そういう(愚かしい)風潮/考え方にちっとも疑いをもたなかった。小学生時分にあれだけ奈良の寺社仏閣を“巡拝”した身にも係わらず、まったくお恥ずかしい話である。所詮、観光地という対象でしかなかったということだったのである、その時までは…。
 
私が、今まさに身を置く密門/験門の世界。滅罪回向の祈りがいかに大切であるかを痛切に感じるようになってきている。実際、先師や明師から、話だけは聞いていた。『これは大切な“法務”である』と。ところが現実世界の加持祈祷の実際に臨むようになってみて、相談する人の殆どすべてに共通する問題であることを実感するようになった。
 
例えば、一時的に祈願成就を果たすのだが、長続きしないケース。否、その手前段階でポッキリ挫折してしまうケース。その背後には『此岸と彼岸の絆が完全に断たれている』という問題が、その願主さんには間違いなく存在することだけは言える。
 
一方で、『何もしていないのに楽しそうにやっている人』の場合、その前の代くらいにキッチリとした墓守、仏壇のお給仕をしている親類が必ずいる。試みに探してみて欲しい。そしてそれに気付いたならば、今を楽しく謳歌している人ほど、先祖の余慶を受けた身であることに感謝して欲しい。万一、『墓参りなど無縁だ』とうそぶく人あらば、その幸せは一代限りの魂の貯金を取り崩して成り立っていることも、同時に知って頂きたい。
 
『何か最近変なことが多いな~。若い時はこんなことなかったのに…』。そう呟く中高年たちがどんどん増えている現実は、案外こういうところにあるのではないか。貯金の残額が減って、或いは、赤字になっているのに、自分たちは隔絶された安全地帯にいると(無理やり)信じて生きている。その原因すら見えない現実は、“隔絶”されている分、ある意味悲劇である。
 
因みに、私たちが何気に使う『告別式』という呼称は、戦後に出来た言葉なのだそうである。それまでは『葬式』という言葉はあっても、“別れを告げる”など言う習慣などなかったと。即ち、『葬送』と呼んで、死者を然るべき世界に“見送った”ということである。あの世とこの世を取り立てて隔絶する考えは、戦後日本の(悪しき)オリジナルなのであって、もともと此岸と彼岸を結ぶ固い絆が『見送る』の一言に込められていた。
 
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こんな話がある。その人は旧家の出身で、両親ともに亡くなってしまった後の整理を兼ねて、久しぶりに帰郷したそうである。何百年を経たその家屋には仏間があるのだが、永らく“開かずの間”のようになっていたらしい。そうは言っても遺品の整理もあり、勇気を出して踏み込んだのだそうだ。
 
驚いたことに、そこにはたくさんの埃を被ったままの位牌が散乱していたと言う。『これは一体…』と絶句する間もなく、その人は一つ一つを丁寧に取り上げては拭ったそうである。そう、人の体を拭うようにして。部屋を掃除し、位牌をきちんと並べていったそうだ。そして香華を手向け、『もはやこの家には主人なく、維持することもままなりません。恐れながら、これら古いお位牌は一度整理させて頂きます。しかるべき新しい先祖代々精霊のお位牌を必ず作りますから、どうかそれを以ってご容赦ください。どうか、それまでしばらくお待ち下さい』と、手を合わせたそうである。
 
その晩、その人は不思議な夢を見る。『大勢の人が、入れ替わり立ち代り、自分に向かってお礼を述べている』、そういう夢だったそうだ。そして、その人たちが自分の先祖であること、何よりも自分自身がその人たちの血を分けた末裔であることを、理屈抜きに理解したそうである。
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どんなに水をやり、肥料をやり、太陽を当ててみても、肝心の畑の土が瓦礫だらけでは、作物は育たない。それ以前に、種を蒔いても芽すら出ないだろう。
 
その人の心が豊饒の大地となった時、加持祈祷の果実は信じられないくらいの甘さ/豊かさとなって、その人に帰っていくことになる。
 
心の大地をよく耕すこと。そうすれば、仮に困窮の渦中にあったとしても、その人は鮮やかに解決の方策を見出すことだろう。目には見えないが、ずっと見守ってくれる存在によって、そっと背中を支えてもらうことになるだろう。
 
加持祈祷とは、自らが努力して作り出す功徳力、神仏の放つ如来加持力、宇宙全体に共振する法界力という三位一体のメカニズムの上に立脚する。祈願にあって、一方通行の行き方を変え、双方向通行の行き方に舵を切った瞬間、その人は新しい人生の地平を開くことになる。