蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

来月の火渡り修行

来る1011日体育の日、恒例の柴灯護摩供火生三昧修行が厳修される。先月にはお寺から早々に連絡を頂戴し、いつものことながら心の準備を始めたところだ。  
 
(昨年度の模様)
 
昨今の世情を見渡してみれば、失望とか、絶望とか、とうてい笑顔にはなれないような言葉ばかりが飛び交っている。都会地では行旅死亡人、即ち“行き倒れ”の人が増えており、僧侶有志による葬送支援のNPO団体がマスコミに取り上げられることもしばしばだ。
 
『日本人の劣化が始まっている』という某党の党首選びで発せられた言葉は、そういう意味では、決してフェイクとは言えないだけに、なんともやるせない思いがある。
 
わが国のGDP(国民総生産)は、とうとう中国に追い抜かれ、少子高齢化はますます進行の度合いを深め、企業の健康保険組合のバランスシートは軒並み赤字計上となっている。
 
ハッキリ言って、このまま無策で過ごせば、20年後の日本国のモノ状況は世界第三位どころか、世界第三十位くらいまで落ちるだろう。そうなった場合、今の便利な生活にサヨナラすることだけは覚悟しておかなくてはならないが、それにしても中長期の方向性を見失ってしまった感のある昨今の日本社会…。『150歳にもなるご老人が戸籍上は何人も存命していた』という笑えない現実は、一連の悲観論の駄目押しとなったような気がする。
 
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この柴灯護摩とは、そもそも山中にて秘密裏に行われたものを、里に降ろす形で始めた歴史がある。法具も供物も十分に整わない山中で、精一杯の供養法を修行することの意味。自分自身が『それでも生かされている』という、当たり前の有り難い事実に気付く瞬間―――。
 
通常、祈願会とはその名の示す通り、祈願された人々の一々の願望成就を期することが主眼とされるし、それはそれでとても大切なことである。
 
しかしながら私は、昨今の世情を考えるにつけ、寧ろもう一方の(本来的な)趣旨をもっと知ってもらい、絶望しかかっている人たちを、そして、傾きそうになっている社会そのものを、勇気付けることが大事なのでないか、そうやって勇気付けることのできる絶好の機会として、火渡り修行の定義づけをもっと積極的に見直していくべきではないかと考え始めている。
 
私たちが今もう一度思い起こすべきは、我々の先祖は、モノのない貧しい時代を懸命に生きて、ココロの豊かさとは何かについて、言葉ではなく皮膚感覚で知った人たちであるという事実であろう。
 
モノが身の回りから失われていくことは、確かに悲しく切ない。しかしながら、かつては私たちの先祖がそうであったのだ。モノの数こそ少ないけれど、だからと言って、人の命が取られる道理はない。寧ろ、逆である。そういう時こそ人は命の炎を燃やして、懸命に生きようとするものだし、それを先人は証明してみせたではないか。
 
火渡り修行は、質素の荘厳の中で祈る中にその本旨がある、そのように申し上げたい。参詣の面々の誰もが真剣になり、仏天の声にダイレクトに耳を澄ませることが叶う機会になると思う。
 
先祖から受け継いだ『DNAを呼び覚ますこと』が叶う場―――。我々が肝に銘じるべきは、私たちの祖父母は、今のような悲嘆に満ちた国を願って逆境を生き抜いたのではない、ということなのである。
 
そのようなことを思って、来月の火渡り修行に臨むつもりでいる。