蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

“恒例の”柴灯護摩・火渡り修行

今週月曜日(10/11)体育の日。師僧のお寺恒例の柴灯護摩・火渡り修行。
 
尊星王流門人会の会報によれば、二黒土星10月の南方向での行動は『風山漸』。即ち、『一歩一歩着実に進むべし』。翻って、『一から始める行動は吉』とあった。真っ先に思ったことは、我ながら意外だったのだが、『新客入門の時を思い出して、まっさらの気持ちでいこう』ということだった。実際、宿曜道の行運で鑑定しても、ここ数年間は、『新しい環境との“他動的な”遭遇』が暗示されている。好むと好まざるに係わらず、『とにかく出遭うしかない』ということである。
 
この火渡り修行であるが、出仕の通知を頂くようになって、かれこれ10年近い年月が過ぎた。本当に早いもので、初めて鈴掛衣を身に着け、ドキドキしながら阿字門の長錫杖を握ったことが昨日のことのようだ。同門のIHさんとペアで門の開閉する呼吸もその時以来ずっと変わらずだから、Iさんとのコラボはある意味“阿吽の域”と言ってよい。
 
昨日準備をしている最中、最古参の●▲先達から呼び止められた。『xx君、来年からキミに法弓作法を変わってもらうから』と。他方、阿字門のペアを組んでいるIさんは別の先達■◆師から『斧作法』。同年代のSさんは、現在の槍作法と閼伽・点火に加え、『湯加持作法』を同じく●▲先達から引き継ぐことになり、昨日は行事の合間を縫ってそれぞれに作法の伝授・習礼を繰り返していた。
 
さて…、この私が引き継ぐことになった、当火渡り道場の法弓作法を説明したい。
 
私たちの火渡り道場では本山派のそれとは違い、五大明王に対して結界を直裁に祈願する内容になっている。所作に要する時間も本山派のものに比べてコンパクトだ。師僧の話しでは、元を辿ると、高尾山に古くから伝法された作法に行き着くとのこと。先代、先々代も高尾山の行者であったが、とりわけ先々代は霊神号をもつ大先達であったから、この作法を受け継ぐことは、ある意味自然なのだと感じて嬉しい気持ちがした。
 
ところで、作法次第では冒頭『秘歌』を披露することになっている。次に、中央と四方の五大明王に呼び掛け、今度は四方に向けて弦を鳴らしながら五大明王真言を唱えつつ、更にそれぞれに呼び掛ける。最後に軍荼利真言(所謂キリキリ真言)を唱えながら、柴灯護摩壇の足元に矢を射掛けて結界を完了させる。秘歌と言い、鳴弦作法と言い、これらは神道式のものである。まさに、神仏習合で作法した往時を髣髴とさせる構成だ。
 
個人的には、神仏習合の作法であることも勿論であるが、五大明王に直接的に呼び掛ける箇所には特に魅かれる。本山における仁王会前行とのコラボを思わずにはいられない。こういう形で縁遠いと思っていた五大明王信仰に近付けたとしたら、とても有り難いことだと思う。
 
さらにつらつら考えを進めれば、私たちの信仰は『不動明王信仰を通じて五大明王信仰の真髄に触れる』ということなのであって、改めて醍醐三宝院の伝灯、言い換えると遷化した前の師僧の熱い思いに気付かされたような気さえする。
 
ここで唐突ながら、企業における人材育成について付言したい。
 
企業社会では人事交流を活発化することで、組織の活性化に繋げていこうとする。同じ担当を単なる担当継続のレベルに止めず、その人の専門分野としての関係を保持させながら、同時進行で新たな世界への展望を拓くように変化させる。全員野球をやるために、それぞれの階層の人材をそれぞれに交流させて活性化させる。古いものは思い切って捨て、新しいものに向かって脱皮させるのだ。当然、そこには生みの苦しみを伴うことが想定されているが、それを繰り返して乗り越えることで人材は確実に育っていくと考える。
 
『風山漸』――――。“一から始める”とは、今まで積み上げたものを一度壊して、そして、新しいものを生み出すことを暗示しているのかもしれない。容赦なくペシャンコにされた“経験”に未練が残るは、人の世の常だ。而して、その“経験”にこびり付いた垢を削ぎ落とすことも、決して忘れてはならない大切な行動だ。変なプライドだとか、頑な意地だとか、それが前進の障害になっていると分かった瞬間、そのことを誰よりも知る自分が勇気を奮って垢落としに向かうのである。
 
その変化に臆することなくチャレンジする―――、その向こうにきっと格別甘い果実のあることを信じて『ひたすら、前へ!』だ。