蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

ヒクソン・グレーシー~伝説の柔術家~

ヒクソン・グレーシーと言えば、格闘技ファンなら知らない人はいないだろう。引退して久しいが、グレーシー柔術を引っさげての連戦連勝。絶対無敗の伝説のカリスマ。
 
このヒクソン・グレーシーのインタビューを、意外にもダイヤモンド・オンライン(ビジネス誌WEBサイト)だったと思うが、読む機会があった。彼の格闘技に対する哲学が、その大部分を占めていたように記憶する。
 
そのインタビュー記事の中で、非常に興味深く感じた箇所があった。『自分は勝つためにしたことは一度もない。負けないようにすることが最も大切だと思ってやってきた』と述べたくだりであった。
 
『絶対に負けないようにする』ということ。これは守勢ばかりを重視するともとれる箇所だが、それほど単純ではないことは直ぐに分かった。実際、幕末の新撰組が取った戦法(常に三対一で囲む)を想像することで、それは容易になると感じた。ともあれ、勝負の決着を先鋭化させるM1格闘技にあっては、このような表現をする人が登場すれば、門外漢にとっても非常に含蓄に富む内容となるものだ。
 
昨今の企業社会では、『コンプライアンス(法令順守)』とか『ガバナンス(企業統治)』という言葉が日常的に使用されている。新しい会計基準の導入とも相俟って、数年前までは考えられないような厳しい内部監査すら、まるで普通に導入される時代となっている。
 
有り体に言えば、昨今のビジネスシーンから、バルブ時代にもてはやされた『華々しさ』とか『派手さ』とかいう形容詞は、“軽佻浮薄”の烙印を押されて一掃されたのだ。ある意味『プロ仕様』と言えば聞こえは良いが、『非常にシビアでしょっぱい対応』を、先ずは常時要求される時代になっているということである。ところが、この種の活動に伴う、その恒常的な重圧に耐えかね、心身のバランスを崩す人が続出する事態となっている現実。問題なしとは到底言えない罪の部分が、そこには現前している。
 
そういう自分自身を取り巻く環境を前提にして、格闘技界の伝説のカリスマ、ヒクソン・グレーシーのインタビューを読んだこともあって、少なくとも素直に笑顔にはなれなかった。新撰組の血風録などについて回る、どこかに暗さの漂う、所詮“強さ”を裏打ちするものとはそういうものだという、シビアな割切りを要求されたような気がして、妙な後味の悪さを残しながら読み終えた。
 
自分自身の過去を振り返ってみて、『負ける』ことに対するアンチ・テーゼを意識してこなかったと言えば、それは間違いなくウソになる。寧ろ、ヒクソンが説明した勝負に対するこだわり、その人生哲学に極めて近い内容を現実には意識していた。
 
それだからこそ、彼のインタビューの内容が、“奇麗事”で済ませたい、自分自身の奥深くに潜む、見栄だとか、体裁だとかを痛撃したに違いない。それを臆面もなく、シラッとやっていた瞬間もきっとあったはずなのだ。だからこそ修験道の加行に入った当初、その反省を徹底的に迫られたのだと思うし、にも関わらず、それが一体何なのか、暫くの間、自分自身にすら掴めなかったのだと思う。
 
自分の成功の陰には、(尤も、自分は成功した人間だとか決して思ってはいないが)少なくとも自分の言動の裏に漂うであろう、高い目線からの(残酷な)物言いの可能性だけは十分に注意したつもりでも、それでも完全に遮断し得ない何らかの猛毒を吐いていた/いることを、よく知らなくてはならない。
 
よくよく考えてみて、企業社会の中で『負けないようにする』ことを実践した二十何年間だったとすれば、それはある部分では、同情や哀れみをシャットアウトしようとする自分の頑なさに行き着くような気がする。無論、それだけではなく、独立自尊の心意気だと、自分では勝手に思っていたが、他方、それは他者の目線に晒さられた瞬間、『所詮、粋がっていただけではないですか』と批判もあるだろう。
 
神仏はそこを断じて見逃すことをされず、私に厳しく迫られた。過去において不注意に発した言葉、不用意にした無礼不遜な態度。ひたすら負けないようにやるあまり、それが自己中心の言動として響いたことで、酷く傷ついた人の存在を知らしめるため。
 
神仏の放つ本当の厳しさに触れた時、そして、その奥深いところに大慈大悲の心の秘められる真実を知った時、私は、私の心の一番深いところで泣いたのだ。合掌して伏し拝んだのだ。
 
だから―――、私は懺悔贖罪の意味を込めて、人の希望を失うことだけはさせてはならないと思って祈る。加持祈祷が迷信だとか、詐欺の類だとか、誹謗されようとも、それでも諦めない。自分を見守って下さった、神仏の深い恩寵―――。これを絶対に忘れてはならいない、そう自分に言い聞かせている。