蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

海老蔵という重み

いつだったか、オーラの泉という番組で江原氏が、『海老蔵さんは前世で行者さんをやっていたことがありますね』と言っていた。今になってそれを思い出している。
 
実際、この方は数年前に、父上であり師匠たる団十郎さんと一緒に、醍醐寺金堂を舞台にしての新作歌舞伎の公演をされた。江原さんの宣託をお借りすれば、それは『浅からぬ因縁の為せる所業』というところであろう。
 
先だって西麻布の酒場で暴力を振るわれた彼氏。頬骨を骨折したことで、市川家相伝の『睨み』を一年くらい封印せざるを得ないようである。因みに頬骨ではなく、眼球を支える窟骨を折っていたら、生涯ダメだったそうである。顔の動きに関係する筋肉が断裂してしまうからとのことだ。
 
この睨みという芸は、因みに『これを拝むと風邪をひかない』という話を、かつて耳にしたことがある。要するに『身体健全』の祈りを、彼は生まれ変わった現世でやっているのだ。尤もそういう祈りを舞台の上で意識しているかどうかは、ご本人に尋ねない限り不明である。
 
その行者にいくら験力があったとしても、持戒を軽蔑する人であれば、世間がそれを受け入れることは決してない。健全な一般常識ということを離れて、いくら“チカラ”を誇示したところで、極めて冷淡である。一時の気休めを喜ぶほど、浮世は単純ではない。
 
さて万一『睨み』を封印されたとしたら…、私は海老蔵という名跡は潔く返上すべきだと思う。それが前世で大勢の人を助けた、その積徳の果報に対する“行者”としてのケジメの付け方だと思うからだ。
 
そもそも市川家は、初代から連綿として続く、成田山不動明王篤信の家系のはず。『荒事を得意とする』とは、言い換えれば、大聖不動明王の功徳を観客の前で一身に体現することを許されたということである。
 
聞けば、酒場で己を『国宝!』と大言していたことが数回あると言うが、本当なのか。
 
『仏の顔も三度』と言うが、恐らくこれが本当の三度目になると直感した。かく言う私も、不動尊を仰ぎ見る行者の末徒だからである。
 
不動尊が何を求めておられるか。もう言うまでもなかろう。歴代市川海老蔵の名前に恥じぬ(ストイックなまでの)人格陶冶であることを、ファンを含む世間一般はとっくに知っている。
 
海老蔵さん、『不動行者』とは、そもそもそういう生き方を自らに課した人間ではなかったのか(?)。自分の心の奥に潜む『弱さ』を、逃げることなく真正面から見詰めることではなかったのか(?)。
 
こういう時、なおさら行者は神仏に至心に懺悔する。己のその増上慢を恥じ、自戒を新たにしてふんどしを締め直すものだ。尤も、こんな基本すらお忘れか。
 
自分がこけることで、自分ではないのだよ、自分に期待を寄せてくれる人たちの顔に泥を塗り、落胆させること…。これこそを畏れなくてはならぬ。