蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

平板な世界

恐らく『呪いの研究』(トランスビュー刊)をご存知だと思う。

続編となる『21世紀の祓い』(アルテ刊)を読了したところだ。『呪いの研究』は呪術なる異界の話であることも手伝って、関心をもって手にとった人も多くおられるもの、と拝察する。N・M先生の著作は、それゆえ、好事家的な話題として受け止める人もいるだろうが、それはそれで否定はしない。実際、話としては『祓いの現場』を描写した箇所は、祈祷所の緊迫感が直に伝わってくるようで、下手な小説よりずっと面白いに違いない。

しかしながら、『臨床仏教』という考えを受け容れる気持ちがあるならば、その視点を忘れることなく見詰める作業を試みることで、却って重大な示唆、或いは評価すべきポイントを、それぞれの人が発見されるのではないか、と思っているところだ。

そのような過程で、前から気になっていた用語があった。以下の用語である。今回は、これに関連して普段から考えていることを述べる。

● フラットランド(FLATLAND=平板な世界)
● フラットランダー(FLATLANDER=平板世界の信奉者)

『全ての価値は相対化され、あらゆる質や深さは、単なる数量または機能に置き換えられる』(ケン・ウィルバー

http://www.kitanet.ne.jp/~k-taka/Wilber/rog/top_main.htm

★ 還元主義を取る/取らざるを得ない(?)現代社会の諸事情は、心や精神を、『物質の付随物として扱う』ことを専らとするのだが、現実の事象(リアリティー)を、物質的な感覚とその延長線上のみで受け止めようとする態度と説明する箇所。

ここを、実生活に置きなおしてみれば、そこには一方では大変な厄災として、(若年層を中心にして)現代社会を襲うものの正体に気付くのではないかと思う。

真言密教で言う『即事而真』(そくじにしん)、天台密教で言う『本覚論』は、往昔、祈りの実践に、更なる実践を重ねた法匠らによって、強く主張されるようになった大事である。現実の事象(リアリティー)の中に、真実の発現を観る態度―――。変なことを言うようだが、それ自体は、他の人と同じく共有されることが可能な関係では『必ずしもない』。その人がそう思った瞬間、『そうなる』のだ。『特異点』として、それはどんな時も『ど真ん中』に位置するのである。(“思い込み”との違いについて、ひとまず置く)

物理現象に還元することに注力する態度は、人々のもつ感性を『最大公約数化することで安心を与えようとする』ものだ。但し、最大公約数とは、所詮は相対化されたものだ。言い換えると、『客観的なパーセンテージ概念そのもの』なのであって、絶対的な/全体的な性質をもつものではない。相対的である限り、結局『その人のど真ん中』に位置することなど出来はしない。世上の災厄の本質を見る時、これを考慮することは大切だ。

昨今の、特に若年層のイジメ問題や、ウツ症状を呈し救いを求めて実際に来山される人を見るとき、私個人は『神話は破壊された』との感を強くもつ。FLATLANDの考えを推進することは、垂直的(VERTICAL)世界観を一顧だにしないことと同義であるが、即ち、水平的(HORIZONTAL)世界観が極端に推奨されることの意味は、『拡大の極限化』を歓迎することはあっても、『静止することを“停滞”として(消極的に)読み替える』作業を伴うことなのである。つまり、静止することで(積極的に)事象の本質を見極めようとする態度そのものが、FLATLANDの価値観では、逆に否定されるのだ。

拡大化の先に立ちはだかる遮蔽物としての価値観/世界観は、直ちに粉砕されねばならぬ―――。このようにして、迷妄/迷信として『一網打尽』にされた『神話的世界観』は、翻って、現代社会を根本で脅かす厄災の怨霊となって、将来を担う世代を主たるターゲットにして、逆襲を始めたと見るべきだろう。

繰り返すが、FLATLANDERが忌避する垂直的な世界では、FLATLANDの住人には窺い知れない『高次の精神性』(精神的な深さ)が存在する。『静止する』ことによってしか得られない次元は、皮肉なことに、垂直的な概念を共有する人の間でしか語られることはない。
しかもそれらは、FLATLANDERにおいては嫉妬/怨嗟の対象として捉えられることすらあって、物質的な価値観(に引き下げたレベル)に還元することをしないと気の済まない人=FLATLANERには、到底受け容れる事の出来ない世界観だ、と言って良い。

FLATLANDは平面水平な世界であることは、既に述べた。もう少し分かりやすい比喩を用いるならば、身を隠したくても、隠せる場所がない世界ということだ。
『例えば…』である。何らかのトラブル(心身ともの)を抱えた人がいたとする。実際、どんな人も程度の差こそあれ、大なり小なりのトラブルを抱えて奮闘しているものだが、中には、その度合いの(相当程度に)強い人がいて、悲惨な状況に遭遇している人がいると仮定する。

人が、心身を委ねる先を喪失したとき。言い換えると、先ずは身を隠すことで、取り敢えずの休息を取ることさえ許されなくなったとき、『必ず』と言って良いだろうが―――、『悲劇』は起きる。それゆえ、その緊急避難所としての『神話的世界観』は保護されなくてはならいないである。実に、迷信迷妄の助長とは完璧に異なる性質の事柄を、現代人は改めて認識し直す必要がある。

さて、その『神話』である。空海の代表的著作に『秘密曼荼羅十住心論』(ひみつまんだら・じゅうじゅうしんろん)、そのサマリーとして『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)がある。人間の心の発達段階を10段階に分類し、その成長進化を遂げる様相を通じて、最高次の段階(秘密荘厳心)に至る階梯を論じるものだ。

今述べている『神話』の段階は、第三住心である『嬰童無畏心』(ようどうむいしん)に当てはめることができる。母親とはぐれ、迷子になって途方に暮れる幼子…。探し回った挙句、ようやく慈愛深き母親に再会して絶対の安心を得て、自身の行動をコントロールすることを学ぶように、娑婆世間の只中にあって漂流するも、ある日忽然として宗教的意識に目覚め、今生と来世の救いを確信するレベルとして説明される箇所である。

ここで注意したいのは、第三住心にあるからと言って、『低次の…』ではナイことである。その第三レベル以前の段階で事足りるとすることを、空海は厳しく批判しているのだ。一般的通念として、第一/第二住心の次元にいて、何らの疑いすら抱か(せ)ない現代社会―――。

FLATLAND問題の本質は、ここにある。