蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

シャンカラ大師

密門/験門の秘奥に臨まんと発願した人は、『汎神論』(万物に神が宿る)の実践を通すことで、結果として『梵我一如』の道を歩むとは言えまいか。8世紀ヒンドゥーの聖賢/シャンカラ大師が説いた如く…。

この『不二一元論』は、表面的な見方に終始すれば、アートマン『我』を否定した釈尊に反逆するようにも見えるから、ヴェーダーの教えを忠実にトレースするものとして認知される。

そもそも、アートマン『我』を認識の前提としてオモテに据えるから、『有る』のだ。一方、ウラに据えた結果として『無い』とするならば、オモテ面の存在を敢えて言った瞬間、『無我』をクルッとひっくり返すことも可能だろう。即ち、『自我』が現前する。

結果としてブラフマン『梵』という宇宙原理に合一し、或いは、等価と観ることで、アートマン『我』は(結果的に)『限りなく否定』されてしまう―――、とも言える。それは一方通行で否定方向に走るものではなくて、相対的にすることで否定関係に持ち込む―――、そこに『双方向性』のベクトルを付与することで、今度はナーガルジュナ(龍樹菩薩)の『空性』と極めて近い関係になるのではないか、と思う。

それゆえシャンカラ大師は『仏教徒の仮面を被った聖者』なる呼称をもたれた―――、そのようにお聞きする。大師の真意を『ウラ面』からこっそり覗いた者は、そこに仏陀釈尊の教えとの驚くべき相似性に気付き、愕然とすることになるのだ。

厳格な伝法に『確かな理由』がある―――。遥か離れた極東の島国で、修験道信仰において『不二一乗』という形で表現される思想実践体系が登場したことは、この文脈から言っても大変に意義深いことだ。