蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

金太郎アメ

五大に皆響きあり
十界に言語を具す
六塵悉く文字なり
法身はこれ実相なり
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(声字実相義:*線は蓮華童子

理源大師をして修験道復興に打ち込ませた根本には、山中にあって『声字実相の瞬間』を何度も何度も、まさに全身全霊を通じて実感されたからだと思っている。大乗仏教における『顕教修行』が本来的に到達地点として想定していた箇所の、その更なる向こうへ跳躍してしまった人―――。空海という巨人を、身近にし得る数少ない貴重な機会として、ある時期の入峯を境として、そう捉えておられたに違いない、率直にそう思う。

ともかく、自然の中で感じる無条件の爽快さ―――、それこそが、祖先が神道として呼び習わす以前の(DNAに刻印された)『感性を基盤とする信仰形態』に行き着くものではないかと直感する。その瞬間、その人は例えば、真言宗所依の読誦経典『般若理趣経』が説く『清浄』の意味を自然な形で体得するに違いない。

ところで、理趣経の説く『清浄』とは何か。言うなれば、『分別に執着することで生じる、偏った視点を不浄とすること』に対照し得る概念、と言い得るものなのだろう。『重々帝網』(即身成仏義)の思想的基盤となった華厳経の『一即多・多即一』は、真言密教に到って『無碍』と表現され、より統合的な概念に一段の進化を遂げる。

先に紹介した米国人思想家/ケン・ウイルバーは、『Great Nest of Being』(邦訳:存在の大いなる入れ子)を主張する。リアリティー(⇒実相)、即ち、我々が生を紡ぐ世界は、単なる物質世界のそれではなくて、周囲を『スピリット』で包まれるようにして存在すると説く。

この場合、スピリットは、概ね、精神作用全般を指すものとして理解して良いだろう。昨今の認識を踏まえて言えば、『霊』ではなく『霊性』が相応しいと思う。そして『Great Nest』(大いなる入れ子)それ自体は、金剛界曼荼羅の九つの各会を想像すると良いのかも知れない。

金剛界曼荼羅は『九会の曼荼羅』のモザイク模様として描かれるが(ある人がこれを指して“金太郎アメ”と呼んだ)、九つという数字自体、本来的には便宜上のものである。本当は無数にあり、しかも、いかなる数となろうが、常に完璧な『セット』として形成されつつ、全ての『いのち』あるものの中に存在する。『山川草木悉有仏性』にある『仏性』とは、言い換えれば『完璧なフォルムの金太郎アメ』が指し示すところの、『清浄なる菩提心』として表示し得る『Being』なのである(⇒如来蔵だ!)。

密教修験道では、欧米世界が呼び習わすスピリットを、伝統的に『心』と表現してきた。空海は、『三心平等』(性霊集)、即ち、自身の心・衆生の心・如来の心の三つを知り、その三つが全くの等質平等であるところの大事を知る者を『大覚』と呼ぶ、と言っている。この大覚とは、『仏陀』(悟れる者)のことである。

☆ その視座からの眺望を以って見極めんとする『無碍』の境涯を『清浄』とする。

個別バラバラの分別をすることによって生じる事柄を善しとする限り、自分たちが生を受けた世界に安寧など生じはしまい。それでは、この世界全体を歪んだ映像でしか捉えられない。まさに『入れ子』の如く精密に組み合された様相、『金太郎アメ』という名の大日如来―――。既にお気付きの人もいるだろう…。

☆ 『法身』として大宇宙に遍満する一個の存在として完璧に形成した様相を、私たちは『リアリティー』の本質としなければならないのだ。