蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

祈り

『祈り』の時間をもつ事は大切だ。『お勤めをする』という言葉で一括りにしてしまいがちだが、実際はそれだけでは済まないのは勿論だ。

仏に祈る。神に祈る。それぞれにスタイルは違う。お経をあげる。祝詞を奏上する。印を組み、真言を唱え、心中深く強く念じ、三昧に住する(ことを強く意識する)。或いは護摩供を修行する。

それぞれにまったく違うが、これが定番などという類ではなくて、今日一日あったことをアレコレ思い、極端に言えば、神仏に向かって愚痴ることだって、あっても変ではない。

そもそも大慈大悲の存在にして、一子を愛する慈母の如き存在だ。その御前にて、娑婆を生き抜いてきた人が、例えば夜半に一人静かに求めることは自然なことだ。声は聞こえなくても、繰り返し繰り返し、自分の気持ちを素直に伝えるようにしていると、ある日、『声のない声が聞こえる』ものだ。時には叱り声だったりするだろうが、それだって『お答え』には違いない。

但しだ、この場合は『素直』という気持ちを忘れないで欲しい。或いは『誠実』の方がピンとくるなら、それでも構わない。要は『ウソのない気持ち』だ。『祈る』ことで、そういう自分が段々と見えてくるが、それを『受け容れる』ことが大切なのである。

神仏に功徳をお願いしたい気持ちは、娑婆を生き抜く人には、とても自然なことだ。だからこそ、その過程で『ウソのない自分』に出会うことを意識することだ。与えられた功徳を『持て余すようなボリューム』として感じる自分であるような場合、すべての不幸は、その瞬間から始まる。

実に『ウソのない自分』に出会えた人は、強い。開き直りとは少し違うと思う。今、この世界に生を受けたことを、素直に喜べる人は、失うものがないから『強い』のだと思う。こういう自分に出会うことを、『本当の功徳』として喜べるようになった時、その人は今までの自分とは全然違う自分を知る。その瞬間、その人を取り巻く情景は一変しているのである。

★『この世のものすべてが美しく見ゆ、という死刑囚の手記を繰り返し読む』

大学の恩師による『刑法総論』の冒頭に記された言葉である。卒業して何年にもなるが、今となっては、生まれて始めて自心を見詰める作業をした人の到達した境地ではないか―――、そう思っている。その人は死刑執行される直前になって、生まれて初めて人の心を知ったのだ。独房で一人、自心を見詰めることを余儀なくされた者が、知らず知らずに『お祈り』をしていたのだ。

★仏心を知り、衆生心を知り、自心を知る者を大覚(=仏陀)と呼ぶ(性霊集)。

空海はこれら三心の平等を説いて、ココロに仏のいますことを後進に教えた。先の死刑囚の話にダブらせるならば、『発心すれば即ち至る』(般若心経秘鍵)とは、決して言葉のマジックではないのである。