蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

<私見>六大という身体

☆ 六大は無碍(むげ)にして常に瑜伽(ユガ)なり(即身成仏義)と習う。

真言密教では、この世界全体の構造を説明する場合、『六大体大』を説く。対する天台密教では『阿字体大』を言うが、両者は密門先徳方によって『開合の不同』と呼ばれる関係で捉えられてきた。分かりやすく言うと、六大体大とは蓮華のまさに花開いた状態であり、阿字体大とは、(合わさった)蓮華の蕾みが(まさに花開こうとして)静かにある状態を言う。

空海は、古代インドの伝統的な教え『五大思想』(地・水・火・風・空のelementを以って世界の構造を説く考え)の上に、『識』というココロの作用を追加して、統合的にそれを捉えた。大事なことは、この『識』を追加して統合する過程で、これら『five elements』は『five vectors』のステージを経て『five moment』に変容していくことに気付くことではないかと思う。

この『六大無碍』では、元素(=モノ)でしかなかった存在にココロの作用が加わる時に、『something great』と呼ばれる『宇宙大の意思』が作用すると考えるのである。『vector』とは大きさと向きの量であるが、『ココロの作用』が触媒となった結果として、それが一定運動を開始させる『moment』(契機)になると考えても、概ね間違いないのではないか。要は、『世界は自由自在に溶け合って(いるから)、相互に響き合う』ことを言いたいのである。

ここにおいて、真言密教における六大体大のもつ意味は、極めて重大なものになる。その意味するところ―――、宗学の面からは、中観と並ぶ、真言密教を支えるもうひとつの柱=ユガ唯識の教え、それが根本にあることを忘れてはいけないが、ココロの様相に対する深い洞察があって阿字/六大の関係性が説かれたことに変わりない。この点は宗学云々に係わらず、改めて注意して記憶すべきだと思う。

☆ 空海は、法身大日如来自らが説法することを主張した。

ところで、先に述べた『阿字』、即ち『阿字本不生』(あじほんぷしょう)という因縁果報の始原を仏<大日如来>とするだけでは足りないと考えるスタイルが、一方で真言密教の根底にある。その視座から進んで『自ら説法する』態度に、強い力点を置くことを重要視しているのが、真言密教の採る立場だ。

これには理由がある。『存在する』で止まれば、つまり『静止』の側面がオモテでは、結果的に、顕教/華厳教主ビルシャナ仏と変わりがなくなってしまうからだ。『法身自ら説法する』ならば、つまり動的な側面(運動エネルギー)をオモテにしたその瞬間、密教真言教主大日如来を明らかに現前させる道が開く。

言い換えると、大乗仏教における顕教を、どのようにして<同じく大乗仏教たる>密教の側に橋渡しをして導くか―――。ここを空海は真剣に模索したのである。若き日の空海、そしてその高弟たちの修行時代。彼らが続々として南都大寺で『顕教修学』に励んだことは、その意味からも注意を要する。

さらに時代が進んで、今度は『華厳宗』の学僧/明恵上人が光明真言を唱え、ビルシャナ仏が五智如来として展開する様相を観ておられたことを知るとき、私たちはこの六大体大のもつダイナミズムを、まったく別なる視点から眺めることになる。

☆ この世界は大日如来の身体そのものである。

この世界には、自然環境という美しい表情/営みがある。つまり、大日如来の身体を構成する『elements』が、そして『vectors』が、相互に溶け合い、微妙に紡ぎ合い、美麗なる布地を織り成すようにして、開き、そして時に合わさって、私たちの目前に展開する。

そして―――、この自然には、その意味で何一つして別個の存在はない。それは、言い換えれば、私たちの身体であり、精神であり、それは密接に繋がっているということだ。私たち一人一人が、大日如来の身体の一部であるのと同じく、地球の自然は大日如来の身体そのものなのだ。

今から100年くらい前、『熊野の森/鎮守の杜を破壊することは、人間の精神を破壊することだ』として、南方熊楠は、まさに身体を張って保護活動に奔走した。ロンドン留学時代に知り合った若き日の土岐法龍(後の真言長者)との交流を通じて、熊楠の天才は気付いていた。この世界は何もかもが、宇宙の根本で繋がっていることを。

☆ お分かりだろうか―――、人の身体をモノ扱いしてはいけない。

ココロを離れてモノは存在しないことを、今から1200年前の日本に強く主張した人たちのいたことを、よく知らなくてはいけない。その人たちは、それを『そこに仏性が宿っている』と表現したまでである。その仏性は、自然界の山川草木に悉く宿る。もっと言えば、目の前の机、イスだってそうだ。単純にモノと思っているだけで、(本当のところ)仏性は宿っているのである。それが見えないのは、私たちの目が単に曇っているからに過ぎぬ。

その仏性―――、私たちが『世界』と呼ぶ大日如来の身体。その身体全体に張り巡らされた生命を絶つことは、自分の仏性を自ら絶つことである。とりわけ人を殺すことで、(何と!)自分で自分を抹殺してしまうことと、それに伴って生じる罪の深さを思い知るべきだろう。翻ってそれは、大日如来という宇宙にいます大霊(=仏性)を拒絶することとイコールになる。この意味するところ―――、人を殺めることを喜ぶ者の居場所は、宇宙全体のどこを探してもナイという結論に行き着くこと。これを知らねばならぬ。

私は別段、霊能者でも何でもないが、『これには大変な苦しみを伴う』と断言する。『オマエに何で分かるんだ?』と問われれば、『今まで述べてきたことを仏さまに教えて頂いたから』、そうお答えしよう。ゆえに、強がってはいけない。自虐趣味を気取っているヒマなどない。『私が知る』限り、後悔した時では遅すぎるのだ。