蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

比丘形の意味

『この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めていい。ただ、君は社会人たりなさい。君は特別な経験をした。社会へ対して訴えたいこともあるだろう。でも、労働も納税もしない人間がいくら社会へ訴えても、それは負け犬の遠吠えだ。だから君は社会人たりなさい。』
(平成19年版「犯罪被害者白書」から「遺族の思い」山口県光市母子殺害事件 ~本村洋氏の手記より~)

本村氏による手記中のこの一節は、事件後、勤務先の会社を辞めようとした時、その上司が諭したとされる言葉だ。裁判で次々に明かされる残虐非道の事実。『妻と子の死因とされる乱暴狼藉。とりわけ妻への乱暴とは“強姦の言い換え”であった』ことが検死の結果として明かされた時、本村氏と奥さまのご家族の心中は如何ばかりであったか…。本村氏の上司/同僚の方に限らずとも、何と言って言葉を書けたら良いものか、言葉を失うばかりだったろう。

一人の人間として、同じく家庭生活を営む企業社会の人間として、十分に言い尽くせないもどかしさ。ココロを励まして、惨劇を間近にした部下を前にして発した、聞きようによっては厳しくもある、上司の(必死の)言葉。果たして自分だったらどうだったのだろうか―――。

修験道には『半僧半俗』の掟のあることを、以前にご紹介した。わが身の半分を俗世に置くことをして、即ち妻帯肉食の生活をしつつも、同時進行で、出来る限りの戒律護持を誓って仏道精進することを旨とする。これは、遥か嚢祖役行者の行跡を慕うことであって、さらに遡れば、聖徳太子の篤敬三宝の教えに行き着くものだ。

半僧半俗であるがゆえに、有髪の行者もあり、一方で剃髪する比丘形の行者もいる。当山派の場合、派祖聖宝理源大師の行跡をトレースしていく修行でもあるから、比丘形の構えでいる人は多い。かく言う私もそうだ。

完全な剃髪(スキンヘッド)は、企業社会のエチケットに反する場合があるので、その手前くらいでご勘弁願っているが、ともあれ比丘形でいることは、内に菩薩のココロを秘めた声聞であり、『応身』の形相を表す、とする。

応身―――、即ち仏さま『法身』が衆生教化のため、具体的な形をとった(方便の)構えであることを、比丘形をとる行者はよくよく自覚しなくてはいけない、ということである。

それで具体的には、例えば、職場で同じような苦しみを受けた同僚を前にした時、どのような言葉を準備できるものだろうか。そのとき、待ったなしで発しなくてはならない言葉とは、一体何か。ともかくも取り繕うような生き方を専らとしていれば、思いつくことさえ不可能に違いない。

自分がまさに『応身』として、比丘形の資格たり得るか。行住坐臥すべてに、そのヒントは隠されているのだろうか…。

言えることは、日日の勤めを粗末にする生活の延長線では、そのヒントすら掴めないどころか、本村氏と彼が失ったご家族、事件以降の今なお必死に支援する方々を前にして、こうやって息災安穏を頂いた身に罰が当たる、ということである。

その時、それは『魂の言葉』ではなくてはならぬ。