蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

しなやかな功徳

ここのところ、一生懸命拝んでいる。

一生懸命拝むのは、ある意味当たり前だが、およそ10ヶ月前から実行を決意し、いよいよカウントダウンの始まった『その行事』に対する準備のためにする祈願。日常の生業における必達目標を掲げての祈願。そして、常日頃、直接/間接にお世話になっている人(家内と実家の猫を含む)すべての命の息災と繁栄の祈願。

いくつにも重なり合ったこれらの事柄を、その都度取り上げては拝んでいる。

人は『加持祈祷』とやると、欲得の塊イメージで捉えることがしばしばある。『本来無一物』の風景を、娑婆の風景に対比することで、欲得を離れた清清しさを描写することはありだが、だからと言ってそれがすべてはではナイ。

私の師僧は『祈るほど心は澄んでくる』と、弟子らに教えた。言わんとするところは、まさに此処である。恐らくだが、『拝むのならば、中途半端にするな』と、私は目下のところそのように読み替えることが妥当と考えており、そうやって真剣度を保ってするプロセスの先に、一筋の光明のあることを信じて、ともかく無心になって(=日常の何気ないワンシーンに同化するつもりで)拝んでいる。

中途半端にやって、そこから生じる功徳に目を奪われて、社会人として成すべきことを疎かにし、人生を踏み外すようなことをするならば、それこそ糾弾されなくてはならない。そんな祈祷法の修行はまさに論外だが、加持祈祷をネガティブに見る人は、ここを強調することはよく知っている。実際、かつての私もそうだった。

人が本気になって祈った時、その人はどんな困難であろうとも、ギリギリのところで耐えることが出来る。これだけは拙いが、私の実体験から自信を持って話すことが出来る。ともすれば折れそうな心に、しなやかな心棒が入るからだ。これの入った人は強いのだ。

但しその強さは、剛性のガチガチの強さではなくて、どこまでも『しなやか』であることが、とても大事なのである。