蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

薀蓄の勲章

今回は、『厳しい現実』というやつを記す。実際、これから記したことに異議ありと思うのならば、実際の行動を通じて証明して見せてもらいたい。御託は要らない。

<序論>
先にその人たちにお勉強してもらう。『木葉衣』を著した江戸期の当山派惣学頭/行智大先達は、所謂『験較べ』を強く批判した。これについては、後世賛否両論があったらしい。この私も、そのような力較べに何らの意義を感じない。しかしながら、当山派学頭/行智師は、だからと言って(験力獲得のための)入峯実修を否定することなど決してしていない。当たり前のことである。
即ち、この種の勝手な言い訳を容認することは、1400年近くに及ぶ修験道修行の否定に繋がるのみならず、山岳仏教を基盤とする修行体系の否定になることを知るべきである。要は、己が怠慢のすり替えなのである。これを人に向かって述べた以上、心得違いを改めるその日まで、容赦することなどあり得ない。

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実際、世の中には言い訳好きな人がいる。同じような言い訳を、もう一人の人からも聞いた。当然だが、その人たちに対してお愛想/ベンチャラなどしない。『ボクたち、笑わせるんじゃないよ』でしかない。

自分からは(その件では)発信はしたことなど見たことがない。否、出来ないのだ。木登りの▲○よろしく人にぶら下がるしかないからだが、問題なのはそれだけでは済まず、ノコノコやって来ては、ぶら下がりつつキャッキャと遊んでしまう。何サマのつもりでっか??(笑)ともあれ、これを恬として恥ない感性。ある意味、酷い境涯だ。

そういう人の眼が、自分の立場や資格の拠って立つところの前提は、都合よくblindになることは、特記すべきなのだろう。自分の◆□の色を忘れて『自家撞着ってナニ?!』って感じで、まるでお構いなしなのだ。(いい加減にするんだな、痺れるぜ)

一方では、知らないところで冷笑されている現実は指摘しておく。笑われているのならまだしも、その無自覚な態度を、無責任でお気楽なものとして容赦しない人たちが(複数)いるのは事実である。言っておくが、これを言っているのは、独りこの私だけではない。

ウソだと思うのならば、実際に面と向かって尋ねてみ給え。出るところに出てみることだ。自分がナニを言っているのか、背負った看板にウソのないTPO。これを本当にわきまえて行動しているか(?)。キッチリ指弾されて、ボコボコに打たれる局面があったってイイ。これとて、立派な里の修行メニューだろう(?!)。

その『恩人』だけなのだ、長い間、甘やかしてくれたのは。やさしく庇護/隔離してくれていた。耳障りになることの一切を遮断してくれた。だからその人たちには余計に『恩人』になることは理解できる。

よく理解できるからこそ、それに事欠いて(いつまでも)甘え続ける態度と、明らかに事実と違うことを正当化することについては、ハッキリ『違う!』と言わせてもらう。この私と、私の知る周囲の人たちは、そんな大勘違いを容赦する気など、これっぽっちもナイから、これからずっと記憶するべきである。

その『恩人』の名誉のために言っておく。実際、その方の若年から壮年に至る修行時代、決してそんな(修験道の歴史を否定するような)デタラメな言い訳を許していない。記録が残っているから、きちんと調べてみるがいい。まったく真逆である。まさに晩年は対機説法をされて、即ち、厳しい現実を(敢えて)伏せる形で、やさしく『客人を遇するのと同じように』接してくれていただけのことである。ここを自分に都合よく勘違いするべきでない。

つらつら眺めてみれば、その人たちには『資格』がイノチと結論するしかない。『歯が白いのはイノチ』とは、歯磨きの宣伝だったけ(笑)。要は外身と中身の照合作業なんかどうだってイイ。自分にとって都合よく、美味しいとこ取りさえできればご名答だ。取り敢えず、見た目の金科玉条は護られる。御身お大事にとばかり、その人の中では微動だしないもの(笑)。

フフフッ、なるほど―――、『薀蓄の勲章』とは、まさにこのことだ。