蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

天部尊について~その1~

今回は、天部の神々について、自ら思うところを記す。

★ 天部の神さまを拝む/拝みたい場合、その人は、明快なかたちでの『誓願』を準備する必要がある。

★ 『入り用の、それもまとまったお金のことを頼む場合、仏さまではないのです』『それは神さまに頼むことです』。(真言K師談)

***************************************

『現世利益』ということに面と向かうことを否定する、『生真面目すぎるくらいのメンタリティー』を護持する僧侶にとって、『天部』など、所詮は神話物語のキャストでしかないのかも知れない。

ところで、滅罪の祈り(⇒葬送儀礼)をメインとするお寺には、天部の神々などとっくにいない。『霊的な穢れ』ということを知る人ほど、この辺りの理解は早いはずだが、『霊的な穢れ…』などという言葉すら、生真面目な人にとっては、生理的な部分での忌避現象の一因でしかない(苦笑)。

お寺に来山する人が深刻な悩みを背負ってくるケースで、それを門前払いしないことを建前にする/したい寺院・教会ある、と仮定してみる。本気でこうしたいと考える以上、その大前提として『天部尊の利生を祈る環境は必須』となることを、モニターの向こう側でニヤニヤしながら眺めている人は、案外少なくないのだろう。

『衣食足りて礼節を知る』とは、この場合、けだし名言である。この礼節の中には、『ものの道理』ということを含めてよいだろう。要は、餓鬼・地獄・修羅などの三悪道でもがく人に対して、先ずは『利生をハッキリ見せる』ことが、何よりの薬になるからだ。

山に行くと分かるが、パニックになった人をともかく落ち着かせる最善策は、とにかく口の中に、食べ物を詰め込むことである。私のそれで恐縮だが、(ニキビの悩みは別にして)ピーナッツチョコなど、『ご馳走』としてベストになろう。まさに『貪るように』口に入れることになるが、それによって、その人の意識は、確実に落ち着きを取り戻す。

そして次の瞬間―――、ここが大切だ。

◎ 『人の忠告をまともに聞くようになる』のである。

つまりは、『自分は目に見えない存在に、しっかり守られている』『それも力強く』という文脈から生じる強い安心感を、体験した人にしか分からないでは済ませず、実践の中で自分自身も体得して、且つ、人に分かるように伝導しなくてはならないということである。

加持/祈祷という実践の中から、それも天部尊を祈る過程で、必死になって手繰ってみることの中に、布教上の大事が隠れているものだ。

逆説的に言えば、このような真剣勝負の加持/祈祷の実践を忌避したら、その代償として、その人の教師としてあるべき説得力が、著しく弱体化してしまう現実を知るべきである。

そもそも『こうあるべし』『こうありたい』とかの『架空の話』をされて、その場でニコニコ納得するほど、忙しい現代人はお人好しではない。教師自らの、まさに骨身を削るような体験の先に、現代人をして納得させる大事が隠れているのではないか。

さて―――。私は天部尊の利生に関連して、『霊的な穢れ…』という発言をした。これを見た(生真面目な)人の何割かは、この瞬間、さっと引くことだろう(苦笑)。

実際、こんなことは教科書に書いていない。当たり前である。教科書に書くべきは、論証される/されたものを、項目別に整理して記す実証主義が大原則であり、だからこそ万人向けに成り得るのだ。

ともあれ、『霊的な穢れ、云々』については、多分だが、『業界用語』と言うより、『特殊用語』になるのだろう。次回に稿を移して、自身の考えを述べたいと思う。