蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

天部尊について~その2~

『霊的な穢れ』という表現には、世間の好悪に係わる、それらが相反する反応が予想される言葉だ。しかしながら、今のところこれ以外に適当な表現を見出せないので、この言葉を使って説明する。

私のところの宗派では、新客時代に(いきなり)天部の行法を開白する。即ち、弁●法と深▲法の二つである。

通常、この世界の口伝としてある代表は、『天部は、一通りの修行を終えた人が拝む』である。実際、これについては、ある人のお師僧さまがそうやって指導していることをお聞きしたし、それは他でも大方そのような指導であることをお聞きする。

それで『一通りの…』とは、例えば四度加行を終了し、伝法灌頂を受けた人。最も典型的な『有資格者』として挙げることが出来るだろう。

或いは、各地の霊山などで複数の師の薫陶を受けながら、一方で独自の苦錬修行を積んできたような人。かなり稀なケースではあるが、実際そういう方はいる。

今となって言えることなのだが、『霊的な…』という意味を考えると、『この世界の常識』には合理性に富むステップがあった、とつくづく思う。

つまり『穢れ』と呼ぶところの、『宿業のヘドロ』。それを相当程度に浄化した人の意味するもの。

それを成し得た人は、天部、とりわけ、その眷属とダイレクト・コンタクトしても、キッチリ受け止められる心の土台を築いている人のことを言うのだ。

仏教アカデミック風に言えば、『無明』の根本原因に対して、抜本的且つ、適切な処置を施し得た人であるから、それゆえ『最低限、間違った人生軌道に転がり落ちない』ことになるだろう。

有り体に言えば、これは天部尊に係わる利生の特色でもあるのだが、チョッとばかり利生を頂いたからと言って、有頂天になってしまうような軽薄さ加減とか、それがまるで自分ひとりのチカラによるものと勘違いしてしまうような、そういう愚者の境涯とは完璧に無縁ということである。

そういう『霊的(スピリチュアル)な存在』を具備する人になっていることの意味は、実に深甚である。

要は、この一連を、『穢れ』という表現によって端的に示すと言って過言ではない。

天部を拝む際、最も忌むべきは、餓鬼の喜ぶ環境である。『先ず掃除!』とする、先徳方の小僧に対する教えは、そういう意味からも、決して無関係ではない。

無論、これが語られる時とは、おおむね修養の教えに限定されることが殆どであるし、それはそれで、きっと有意義なのだ。

さて、上記の天部二尊を授かって修行を始めたとする。ここでシッカリした修行環境が出来ていない人の場合、9割以上脱落すると考えて間違いない。『シッカリした修行環境』とは、例えばチカラのある師僧が傍近くで見守ってくれている場合を言う。

或いは、その場所が(霊的な意味での)聖域として長い歴史を有するような場合だ。その場所を外護されている先師方のチカラによって、すくい取ってもらえる筈だ。余程の事でもない限り、脱落などしない筈である。真剣に臨む限り、間違いなく応援してくれるだろうし、実際、私はこの部分では、とても不思議な体験をしており、ことあるごとに感謝の気持ちで一杯になるのだ