蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

天部尊について~その3~

さて―――、生身の穢れだらけの新客が、それでも何とかして修行成満を願うとき、とりわけピンチに立たされるような場合(⇒かなり高い確率で一度はそうなる)、私は『神仏習合の信仰』を、強く思って欲しいと願っている。

★ 『日本の神さまは、密教修行をする人を守ってくれるのです』(前掲、真言K師談)
★ 『餓鬼は女人の経血を好む。(霊的な)不浄を嫌う天部の祈願では、その時期だけだが、お参りは厳に遠慮して頂く』(台密H師)

上記K師のアドバイスは、修行期間中に遭遇した『怪異』に困り果てていた時期に、有り難くも授かったものである。その後の信仰観が一変した、と言って過言ではない。

H師のそれを目にした時、拙きものとは言え、苦しんだ修行期間中に得た直感と重なり合うこと多々あり、思わず膝を打ったものだ。

意外かもしれないが、私は祝詞の数で言えば、(気が付いたら)20種類近くのものを唱え分けるようになっている。今数えなおしてみて、我ながらチョッとビックリだ…(汗)。

そのうち、基本とする常用は5種類。そのほかは、週の日ごとに決めたものをそれぞれ、自坊の神棚に向かって、朝夕のお勤めの前段で拝礼する際に唱えている。

その中の『六根清浄大祓』について述べる。但し、あくまでも私なりの感想である。どうかお許し願いたい。

★ 心身清浄の目的に限って言えば、非常に強いチカラを発揮する祝詞

内容について、私見を述べる。

先ず、大乗仏教のユガ唯識と中観の知見のない人には、決して著せない内容ということを指摘しておきたい。『五大』の考えは、『金剛界五智如来』という面と、『中国の五大思想』が密接に係わっている。しかし、後者の知見だけでは『眼・耳・鼻・舌・意』の配当する以上のことは無理だ。

それら肉体上の感覚器官を通じて、物理的に知覚されながらも、内省する過程では、意識の上で実存として知覚されることなく、即ち、実体なき空性に帰することを示唆する内容であることが重要なのだ。般若空の実践修行としてあるところの、六根清浄を繰り返し唱える体験を積んだ人には、一目瞭然のことである。

前者『金剛界五仏』の知見があることで、それら事象のすべては、最終的に大日如来という、真言密教の世界観である『六大無碍』(⇒この世界全体が大日如来の身体(立川武蔵氏))に収斂されるが故に、自分自身が、この世界の何もかもと、一切平等にして、即ち、溶け合って一体化した存在として覚証される大事とは、真言密教の説く『加持』の根本理論であり、『悟り』に係わる重大事である。

高祖大師の言行録である『性霊集』(真済大徳編)には、自分の心、衆生の心、そして仏の心を知る者を大覚(ブッダ)と呼ぶとする『三心平等』を記している。

弘法大師の融通無碍の教え(即身成仏義)を一度でも目にした人が(⇒新客とて例外ではない)、この六根清浄大祓を唱えるならば、私は、その人は甚大の利生を得ることになると確信する。

もう少し説明する。

この五大が実践形として顕わになる様相を示す真言こそ、『光明真言』ではないか。金剛界五仏智慧が、娑婆の苦海を切り裂く憤怒形として示現し、『五大明王』という尊格を取るのだ。

六根清浄大祓でも述べられているが、『五臓の神君安寧なり…』は、修験道の『五大観文』の祈祷実践を知るならば、決して偶然でないことを了知するだろう。そこに配置された五大明王との関連性に思いを馳せる時、密教修験道のもつ教えの奥深さに、改めて感銘を覚えずにはいられないのだ。