ベスト・アンサー(?)
真言密教と当山派修験道の関係を問う質問をYAHOO!掲示板で見かけた。それに対する回答が『ベスト・アンサー』として華マルが付きで掲載されていたので一読したのだが、『所詮こんなものか』と(失望気味の)印象をもったことは、正直なところだ。
ともあれ、これは啓蒙する側にも問題ありとして捉えなおすべきだろうと、直ぐに考え直したところである。
その人の回答を見ると、『よく分からないけれども…』との断り書きがあって、
今の仏教で、釈尊ご在世にあるような『純粋な仏教(?)』は存在しない。
密教はヒンズー教えのミックスされた仏教である。
当山派修験道は真言密教がミックスされた修験道である。
文字通り『本当に分かってないな』だが(苦笑)、では『どのように分かってないか』は具体的に指摘すべきだと思う。
これに対する一つの回答として言えることは、『修験道は大乗仏教信仰を深化させるための実践』ということである。
そもそも、わが国の修験道興隆を企図された祖師方の事跡を紐解けば、大乗仏教にある顕教信仰の限界を悟った上で密教信仰に移行し、その密教信仰の限界を突破するために、修験道信仰を大いに活用していったという事実である。ここは指摘されなくてはならない。
言い換えると、密教信仰とは大乗仏教信仰の極点に位置することを言いたいがために、役行者以来の修験道信仰が再構成されたと見る視点が厳然としてあることを、私たち教師もよく理解すべきなのだ。要は、そこが常に意識すべき箇所なのである。
密教信仰の落とし穴としてあるのは、方便を極めて重視する教えにかまけて、外の世界にある事象のみを追っ掛ける態度に終始してしまうところであろう。『成仏と利生』の、ある意味二律背反の関係だけは、自身の中でずっと問い続けなくてはならないと、耳にタコができるくらい言われるのは、成仏という『自身の内面に向かう』自己規律の発揮が大事だからである。
その『自己規律』なるものを支える衣食住の外部環境を最低限整えるため、一方で利生という形で現前させること。密教信仰はこれを具備する教えであるが、それを深化した形で実感する工夫を考えたとき、修験道信仰は非常に意義深い信仰実践として、『その人』に現前することだろう。
尚、『ヒンズー教のミックスしたもの』という意見については、別稿でコメントしたい。
ともあれ、これは啓蒙する側にも問題ありとして捉えなおすべきだろうと、直ぐに考え直したところである。
その人の回答を見ると、『よく分からないけれども…』との断り書きがあって、
今の仏教で、釈尊ご在世にあるような『純粋な仏教(?)』は存在しない。
密教はヒンズー教えのミックスされた仏教である。
当山派修験道は真言密教がミックスされた修験道である。
文字通り『本当に分かってないな』だが(苦笑)、では『どのように分かってないか』は具体的に指摘すべきだと思う。
これに対する一つの回答として言えることは、『修験道は大乗仏教信仰を深化させるための実践』ということである。
そもそも、わが国の修験道興隆を企図された祖師方の事跡を紐解けば、大乗仏教にある顕教信仰の限界を悟った上で密教信仰に移行し、その密教信仰の限界を突破するために、修験道信仰を大いに活用していったという事実である。ここは指摘されなくてはならない。
言い換えると、密教信仰とは大乗仏教信仰の極点に位置することを言いたいがために、役行者以来の修験道信仰が再構成されたと見る視点が厳然としてあることを、私たち教師もよく理解すべきなのだ。要は、そこが常に意識すべき箇所なのである。
密教信仰の落とし穴としてあるのは、方便を極めて重視する教えにかまけて、外の世界にある事象のみを追っ掛ける態度に終始してしまうところであろう。『成仏と利生』の、ある意味二律背反の関係だけは、自身の中でずっと問い続けなくてはならないと、耳にタコができるくらい言われるのは、成仏という『自身の内面に向かう』自己規律の発揮が大事だからである。
その『自己規律』なるものを支える衣食住の外部環境を最低限整えるため、一方で利生という形で現前させること。密教信仰はこれを具備する教えであるが、それを深化した形で実感する工夫を考えたとき、修験道信仰は非常に意義深い信仰実践として、『その人』に現前することだろう。
尚、『ヒンズー教のミックスしたもの』という意見については、別稿でコメントしたい。