蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

秋の入峰~大山登拝~その2

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先週土曜日~日曜日にかけて、第二回丹沢峰中修行を実施した。今回が霊峰大山であることは、前回のブログでご紹介したとおりである。

まず今回の入峰については、いろいろな課題のあることに、しばしば気付かされたことを報告したい。

山の修行は、ときに『死と再生の儀礼』と呼ばれることがある。言うまでもなく、そこにレジャー感覚の存在する余地はない。

★行者は山に入ったら、いったん自らを葬らなくてはならない。修験装束とは、一方で死装束でもあるのだ。生まれ変わって出てくるためには、勇気を奮って『死ぬ』のである。

★『たとえ親兄弟といえども、一切他言してはならない』。これは修験行者の修行内容についての掟です。先達は厳しい指導と統率のもと、一切の個人の都合は無視して、いつまでも一つの行を強要します。生命をかけてのダイナミックな修行(中略)、まかりまちがえば死ぬかもしれない危険に身を置く難行苦行であります。(『空海真言密教読売新聞社(1982)修験道入門-修行の心得-)

ところがである…。大山はすでに大勢のハイカーの聖地であり、修験者の装束で入れば、物珍しさも手伝って、まさに“衆目の監視の中”という、山の修行が本来的に想定し得ない次元での対応が求めらるところになっていた…。

山中では、NHKワールド(海外向け国際放送)のクルーと遭遇した。しばしインタビューを受ける羽目になった。オンエアーされればだが、数ヶ月内に、海外に副住職のYさん共々、JAPANの伝統文化の一端として発信されることになろう。

無論、決してそれを否定するものではない。布教(ミッション)という観点で言えば、寧ろそのような状況は歓迎されなくてはならないし、そういう事態に備えて、不断の精進と研鑽が求めらるのだから、緊張感のある日常を過ごせる意味では、“有意義”なのだ。

但し、そういう要素の入り込む余地を残す場所であるからこそ、レジャーで訪れた方々から何気なく発せられる質問やら疑問に対して、一々の対応を求められたことも『現実』であった。

写真をせがまれて、一緒に並んだこともそうだ。NO PROBLEM!,全然構わない、勿論だ。

『なんだか嬉しそうにしているな』と思って、言われるがままにしたし、そうなることも最初から分かっていた。

にも関わらず、この一週間、心の中で何かが“疼いている”。モヤモヤとしたそれは一体なんだろうか…。

もしかしたら、『死に切れなかった』ことに対する、自責の念と言うか、悔悟の念と言うか、山の修行が本来的に行者に課するものを、自らの未熟さゆえに受け止め切れなかったことに対して、より高い完成形を追求したいもう一人の自分が、何事か心の中で叫んでいるのかも知れぬ。

ともあれ、今後へ向けて、次なる課題を課せられたのだ。筋肉痛でパンパンに腫れ上がった両足のそれなど、さっさと脇に置いてよく考えるよう、神仏の思し召しとして有り難く頂戴することなのだ。

『南無石尊大権現』

合掌