秋の入峰~大山登拝~その1
家内から、『なんで山に行くわけ?』という至極単純で、しかも極めて鋭い(?!)質問を受けた。これに対する答えは、教科書などでは、『山とは神と仏のいます異界であり、そこに分け入った修行者が同化することで験力を得ると信じて…』みたいなことが書かれている。
そういう意識はあまりナイよ~と言えば、ウソになるが…。これは私のとりあえずの結論なのであるが、『山に入ることは修験道の行者にとっては、その責任を果たすこと』ということになろうか…。
今の私は、朝夕の“お勤め”を“ご祈祷”に変化させてしまった。尤もこれはとても自然な流れだった。
実際に相談されてこられた方々の思いを引き受ける形で、ご本人にもお知らせすることのすらない秘密裏の加持祈祷のそれを執行しているわけだが、それはそれで自身の秘めた思いから出てくるものであり、私なりの行者としての信念の発露なのだ。
私は企業社会の人間であり、そこで生業を得て生活している身。無論、加持祈祷のそれでお金など頂戴したためしがないので、逆に家内や知人にたしなめられたことすらあって、それ以来、その部分では沈黙を貫いているつもりだ(苦笑)。
★修験道教師のそれが、自分のため目的だけだったら、やっぱり入峰はなかった。これだけはハッキリ言える。
そこに結縁信心願主の顔が浮かび、その人の心の平安を強く願うがゆえに、験門先師方のひそみに倣って、山に入り、山より出でて、ただただ挺身するのみだ。格好よく言ってしまえば、これが私なりの『社会ボランティア』なのだ。
とにかく、この私(たち)を深いところで突き動かす“何か”があるのである。
『南無神変大菩薩』『南無聖宝尊師』
合掌