蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

大日法~戦争の終わった日~

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最近意外に感じて、しかも内心驚いていることがある。それは、先の大戦の記憶がますます遠いものになりつつあるという事実だ。

現実に、生の体験を聞いたことのない若い親御さんが大勢になりつつあり、ある意味それは致し方のないことかも知れぬ。

それでこの私の場合であるが、小学生の頃、両親、とりわけ母親はしきりに自らの戦争体験を聞かせてくれたことを、最近やけに思い出すようになった。

母の父親(私の母方の祖父)は旧満州奉天(現在の瀋陽)で関東軍を主な取引先とする事業を営んでいた。ラストエンペラーで『アーモー』という名の乳母が登場していたと記憶するが、日本人たちの間では『アマさん』と呼んでいた。『家政婦⇒お手伝いさん』のことであるが、母の家族はそのアマさんと一緒に暮らしていた。

その後、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄して、なだれを打って中国大陸に侵攻してきた。多くの方が或いはご存知なのかもしれながいが、民間人ばかり取り残されてしまったのである。関東軍が遁走してしまった中国大陸…。私の祖母は、母とその兄弟姉妹を引き連れ、鴨緑河を越え、途中でソ連軍の横暴に恐怖しながら、それでも平壌を過ぎてさらに釜山まで南下に成功し、そこからは客船でおよそ一年越しで日本に生還を果たす。

こんなことがあったそうだ。ソ連軍の南下を逃れ、極寒の大陸を空腹に耐えてとぼとぼと歩いていた時、幼子の不憫さを哀れんでくれたのだろう。朝鮮のお婆さんが突然家から出てきて、新聞紙で包んだ暖かいサツマイモの束をぎゅっとポケットに押し込んでくれたのだ。

『これを持って行きなさい』

幼子とは言え、母の家族はもはや敵国の人間である。見つかれば大変なことになるだろう。そういう危険を顧みず、その見ず知らずの朝鮮のお婆さんは、耳に顔を寄せて小さな声で、しかし、しっかりと目で合図してくれた。

残念なことであるが、そのような温情を頂いたにも関わらず、当時二歳の叔父は栄養失調に耐え切れず、平壌付近で力尽き、異国の土となった。戦後64年を経た今日、今なおかの地への墓参は叶わず、あろうことか、かの地は日本の安全保障上にとって目の離せない場所となってしまった。

わが祖母も、数回に渡って墓参の嘆願書を提出したが、もとより無駄だったのだか。すでに鬼籍に入って久しい。

今日、せめて大日尊の浄土にて再会を果たしてもらうべく、私はひたすらに菩提仏果の祈念を凝らして遠くなりつつ記憶を辿った。

合掌