現代の修験道
ところが予想通りの“反発”があった。『修験道にそんな能書きは要らない。要は験力の発揮でしょう』と…。
実際、それは否定しない、どころか、非常に重要な要素である。事実、企業活動の責務の一端を負う身にして、修験道教師の道を歩くことを自らに課した身である。現実世界の中で、“験力”なのか、にわかには断定できないけれども、『不可思議』という表現をもってしても表わしきれない“ミラクル”を何度か目の当たりしてきているからだ。
そうでなければ、2008年10月に起きた、百年に一回あるかないかのリーマンショック級の大打撃から(すくっと)立ち直ることなど、絶対にあり得なかった。私の関わる自動車産業は、まさにその直撃弾を受けていたからだ。
而して―――、それがすべてではナイ、敢えてそう申し上げる。もっともっと大きな修行体系だから、ということを言いたいがためである。
畏れながら、恐らくは若き日の聖宝理源大師が直面せざるを得なかった苦悩とは、『せっかくの御仏の教えが、“出家主義”を取る限り、その救いを本当に必要としている人々のもとに届かない』という思いに尽きると思っているのだが、どうだろうか。
繰り返しになるが、そこに“在家信者(優婆塞)”たる役行者の大きな存在があったことは極めて重要である。
ともあれ、一読をお薦めしたい。頭でっかちの現代人にとっても、そして、現役の修験者にとっても、修験道という修行体系の(まだ私たちでさえ気付いていない)秘めたる可能性を知る上で、非常に示唆に富む内容である。
『南無神変大菩薩』
『南無聖宝尊師』
『南無満山護法善神』
合掌