蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

現代の修験道

今回は、『現代の修験道』(正木晃著:中央公論新社/2011)を紹介したい。
 
イメージ 1
イメージ 2
 
以前、このブログで修験道に対する私見を述べたことがあった。
 
当山派修験道は、聖宝尊師の生涯を知る限りは、『大乗仏教信仰の実践を目指すものであり、ひいては弘法大師のご誓願を具現化する実践体系なのだ』と。
 
ところが予想通りの“反発”があった。『修験道にそんな能書きは要らない。要は験力の発揮でしょう』と…。
 
実際、それは否定しない、どころか、非常に重要な要素である。事実、企業活動の責務の一端を負う身にして、修験道教師の道を歩くことを自らに課した身である。現実世界の中で、“験力”なのか、にわかには断定できないけれども、『不可思議』という表現をもってしても表わしきれない“ミラクル”を何度か目の当たりしてきているからだ。
 
そうでなければ、2008年10月に起きた、百年に一回あるかないかのリーマンショック級の大打撃から(すくっと)立ち直ることなど、絶対にあり得なかった。私の関わる自動車産業は、まさにその直撃弾を受けていたからだ。
 
而して―――、それがすべてではナイ、敢えてそう申し上げる。もっともっと大きな修行体系だから、ということを言いたいがためである。
 
修験道修行は、“出家主義”に拘らない。ここが非常に重要なポイントだ。大乗仏教は、在家の救済を旗印にして勃興した革新運動であったのだ。
 
畏れながら、恐らくは若き日の聖宝理源大師が直面せざるを得なかった苦悩とは、『せっかくの御仏の教えが、“出家主義”を取る限り、その救いを本当に必要としている人々のもとに届かない』という思いに尽きると思っているのだが、どうだろうか。
 
さらに付け加えるならば、修験道神仏習合信仰の実践であり、“出家していない神霊”を時に供養し、時に供養されながら、『共に歩む聖なる道』である。
 
一方、『役優婆塞』、即ち、“在家信者”役君行者/神変大菩薩の残された偉大な足跡にこそ、その苦悩を解決するヒントがあっただろうことは、大乗仏教の教学を修めた人ならば容易に想像できるような気がする。
 
弘法大師、理源大師をはじめとする、南都で学んだ学僧が山に入ることを躊躇しなかった最大の理由に、机上の大乗仏教学論に新たな生命を吹き込むことに格別な意義を見ていたことは言うを待たないだろう。
 
繰り返しになるが、そこに“在家信者(優婆塞)”たる役行者の大きな存在があったことは極めて重要である。
 
そうすることで、つまりは、役行者の超人的な足跡を辿ることを通じて、『実は上求菩提だけだった』大乗仏教信仰に、『下化衆生』という、もう一つのテーゼが本当の意味で組み合わさったのだ。
 
ともあれ、一読をお薦めしたい。頭でっかちの現代人にとっても、そして、現役の修験者にとっても、修験道という修行体系の(まだ私たちでさえ気付いていない)秘めたる可能性を知る上で、非常に示唆に富む内容である。
 
『南無神変大菩薩
『南無聖宝尊師』
『南無満山護法善神
合掌