蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

仁王経法一座

本日は現在取り取り組んでいる孔雀経法を一旦お休みして仁王経法を修行しました。

本山からは予めお願いしていた「五大力尊御影」と「五大力護摩札」がそれぞれ送付されてきましたので、先ずは自坊にて仁王経法を修法して、更なる厳重なお加持を致した次第です。

例年の今頃であれば本山にて修行される厳儀「五大力尊仁王会(通称「五大力さん」)の前行に出仕させて頂くのですが、残念ながら新型コロナウイルスに伴う緊急事態宣言下と相成り、前行僧としての参座が叶いませんでした。

ともあれ、今年もご縁のあった方に「五大力尊御影」の祈祷札をお渡しする予定です。すでに職場で「どうなってるのかなあ~」という人がいて(笑)、先ずはその方からお渡します(!)。

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今回の修行では仁王経曼荼羅を息災用のものを開眼して拝みました。仁王経曼荼羅を言った場合、仁海僧正(951-1046)が仏師如照に指図して描かせた増益用が通常です。増益なので東上位の曼荼羅となりますが、後年、定海三宝院大僧正(1074-1149)は北上位の息災用曼荼羅(*)として更新されたことが覚禅抄に記録されているとのことです。

(*)金剛牙菩薩の三昧耶形「半三鈷杵を二個傾け立てた牙の形」を不動尊の上に描く

因みに定海大僧正の晩年となる1140年代から10数年後の1156年に「保元の乱」が起こります。皇室の内紛が主因とされますが、その解決のため、たしか「下賤なる乱暴者⇒武士を昇殿させた」と習った記憶です。その数十年くらい前から、武家の源平両氏という「腕力のある者」が徐々に台頭してきていた時代だったと理解しています。

これは全くの私見でしかありませんが、仁海僧正のご在世の平安時代(≒政治的にはほぼ無風の平和な時代)とは違い、定海大僧正の時代とは「古代日本が中世という時代に大きく変わりつつある曲がり角」だったのではないかと想像しています。

つまり「禁裏を騒然とさせるような出来事⇒源平という武士団(暴力装置)を利用して解決していく政治スタイル」が、京の都はもとより、日本各地で横行し始めた時代であったということです。

従い、禁裏から加持祈祷のため昇殿を何度も求められた定海僧正としては、そのような「激しく荒れる時代」に相応するには、あえて「息災を強調する」べくの曼荼羅に再構成しなくてはならなかったのではないか、そのような想像を巡らしながらの一座となりました。

今の時代、即ち新型コロナウイルスという「全世界規模の未知の感染症」によって怯える人々や、それによって沈鬱な雰囲気に包まれた現代社会を思うと、敢えて息災用曼荼羅にてお祈りすることにも意義があるのではないか――、微力なる市井の一行者としてではありますが、そのような考えをしているところであります。

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「南無本尊界会般若明王

「南無五大力菩薩」

「南無五大力明王

「南無遍照金剛」

「南無神変大菩薩

「南無聖宝尊師」

合掌