蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

水行のミラクル

どんな行法においても一生懸命に取り組んでいますと、不思議な偶然に出会うものです。この世界では『神秘体験』とか言ったりしますが、この水行においても、やはりと言うべきか、このような体験を致しました。

私はある時期、『水行(自宅用略法)』のそれですが、およそ一ヶ月間に渡って打ち込んでいたことがございます。仕事が猛烈に忙しくなっていた時期でした。仕事では、私は米国とのやり取りをメインにしてやっておりますが、2003年のILWU(米国西岸港湾労組)とPMA(米国海上経営者協会)の間で起こった労使紛争によって、『ウエスト・コースト』、即ち、米国経済を支える物流大動脈の出入り口は、およそ一週間に渡って封鎖されてしまいました。米国ビジネスに携わる関係者は、大混乱に陥りました。9.11の起こる一年前の出来事でした。

私は、某自動車会社の北米向けノックダウン・パーツ輸送管理における実務担当者なのですが、この時の前後だけは、生涯忘れないと思います。

その時期は、未だ新客気分が抜けないまま、週末には自坊にて授かった一尊法を拝んでいた頃でした。その前の前の年、お寺での出仕中に負った足の大ケガが漸く癒えた頃でもありました。それでも、不徳の致すところなのでしょう…。身辺には『強烈な異変』が次々と現れては消え、現れては消えしているような状態でした。否―――、自分の心の最深部から『ソレ』は噴き出してきて、心がグラグラに揺れに揺れて、それが身辺上の異変/障碍になっていくような、そんな感じ…。或いは、こう表現すべきなのかも知れません。

まさに、『会社で熱くなったアタマ』を、『法水によって冷やす』ことをしていました。水行中は、頭から湯気でも出ているのではなかろうか…、そんな感覚がありました。とにかく冷やさなければ、とても眠れるような状態ではないのです。何かがバンッと弾けた途端、ぐいぐいとブラックホールに引き込まれてしまうような、形容しようのないメチャクチャ酷い気分に襲われていました。

そんな時、週末に家内の妹夫婦と高尾山にお参りしようか、との話がありました。『いいよ』と何気なく返答しました。そして―――、『あっ、そうだ、飯綱さまに助けてもらおう』と、真剣に思ったことを覚えています。何故だか、ピンと来るものがあったのです。

そう言えば、師僧の祖父/父上は、高尾山での修行…。とりわけ、お祖父さまにあたる『東●坊霊神僧正』は、神仏分離令以降、長く途絶えた高尾山の柴燈護摩修行を復興した大先達だったことを思い出しました。初めて上がった師僧の自坊で目にした飯綱権現の尊像。(今の高尾山では恐らく目にすることはないだろう)非常に厳しい憤怒の相だったこと。

そして、長く林業行政に携わった家内の祖父が、『明治の森国定公園』でもある山上/有喜苑に建立した碑…。自分と高尾山を繋ぐものが、次から次へと、頭の中をグルグル回り始めました。

その日―――。本堂での護摩供に参拝し、奥の院に至る諸堂を巡拝して帰途に向かおうとした時。『あっ』、聖天堂の扉が開いているではありませんか。見ると、お堂の中でこれから一座のお祈りの準備がされているようだ…。『ああ~勿体ない』と、思わず合掌したところ、『こっちへお上がりください』と、手招きまで…。

私を入れた4人は、何と(!)、あの狭い聖天堂の内陣に参座させて頂き、聖天法の一座の最初から最後まで、目前で拝むことが出来ました。今では、巾着型のお賽銭箱すら撤去され、真言を記した板も無くなってしまい、いつも扉が閉められているのに…。でもその時は、本当にそんなウソみたいな偶然を体験しました。

家内の妹夫婦は、都内でデザイン事務所をやっているのですが、後になって聞けばその時は、資金繰りで苦しかったとのこと。そう言えば、義妹夫婦が『目を閉じて必死に合掌している』のが、ずっと目に焼きついていましたが、その時は事情がよく分かりませんでした。とにかく『感心だな、スゴイ真面目にお祈りしている』…。

ともあれ、『こんなことないよ、普通』とだけは、義妹夫婦に言ったことを覚えています。『きっと、あなた達二人は守られているんだね』と、家内…。その後です、『最近、スゴイ忙しいらしいよ…』と。確かに聖天尊に利生談では、『次々から次へと、とっかえひっかえみたいにして…』とお聞きしますので、直ぐに良い想像ができました。『じゃ、もう大丈夫だよ』と確信したくらいです。

これを普通の人目線ではなく、行者目線で考え直してみれば、私自身は『ミラクル』もあるのですが、『一ヶ月間の水行で十二分に禊をさせられた』ものと確信しております(苦笑)。

『オマエは引率係になりなさい。だが、何しろ煩悩まみれで、およそ不浄の心身である。その義妹夫婦を助けたいが、そのまま来てもらっては困る。何しろ、オマエはバッチイのだ!』だったのかな…。(笑)

ところで、『肝心の飯綱さまのお助けはどうなったの?』と云うことであります。私は何故だかよく分かりませんが、その時『自分のことは、ハッキリ言ってどうでも良くなってしまった』のです。これだけは偽りのない正直な気持ちだと、ホントに言えます。
今、目の前で仏天の御手が差し伸べられたことを、十分に確信できる事態が展開しているではないか―――。そう思ったら、『本当に良かったネ』という気持ちが湧いて来て、拙いのかも知れませんが、『行者のミッション』を少しだけ果たせたような気持ちがしたんです。ただただ、『嬉しかった』のです。