蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

プージャの作法

所謂『修法』と呼ばれる一尊法は、『十八道立て』として、作法の手順などを表立って紹介されることは、『意外にも多い』。『秘密』は『隠蔽』のリスクと常に裏腹の関係にある。それゆえ、この関係を憂いて、敢えて公開に踏み切る教師は少なからずいる。当然、条件付きになるべき性質のものだが、説明方法/範囲さえ間違えなければ、私自身も丁寧懇切の説明を試みることは、布教啓蒙の意味から大切にすべきだと思っている。
ともあれ、古代インドの賓客をもてなす作法をなぞったものとして改めて紹介されると、世間の人々の目にはエキゾチックな光景として映るようである。

ところで、洒水加持によって洒水器を撹拌する様子を、『蜜と乳を掻き混ぜて作るチーズです』とのインド的比喩(?)で説明する場合があるのだが、そのためにする『有効な』散杖の振り方作法に、何か秘密の匂いがと…、ひどく勘違いする人が出てきてしまったことが(かつて)あった。却って、それがあたかも、秘法伝授の是非であるかのような風潮の出来てしまうことを憂いて、『そんなこと(=形式的なこだわり)するくらいなら英単語の一つでも暗記した方がマシだ』との“暴言?!”(笑)を、(ずっと以前なのだが)某大徳が思わず発言されたことがあった。それくらい、とにもかくにも、微妙なニュアンスを含んで修行されるものであることを併せて知っておいて良い。

香を焚き込め、華を飾り、閼伽(aqua/清らかな水)と供物を捧げて、声明の賛歌を詠じることで、仏天を讃嘆し…etc。特等席にご着席頂いた上で、その閼伽を用いて、更には、客人の足を丁寧に洗って差し上げ、お食事の後の口を洗い清めて頂く…。まさにヴェーダ聖典の定めた祭儀が、行者の目前できらびやかに展開する。

ずっと以前だが、若気の生意気真っ盛りの頃、六本木の高級インド料理店をデートコースだとか称して訪ねたことがあった。そして、その時の光景がずっと忘れられなくなってしまったのだから、人生とは不思議なものだ。まさに秘儀を(自分だけに…だが(苦笑))彷彿とさせるようなコース料理が、マハラジャの晩餐宜しく、彼女(無論、そんなことには関心ナシだ!)と、私の目前に供されたのだ…。

これら諸作法では、行者は至心にマントラを詠じ、秘印を結んで祈る。身口意の働きを総動員し、それらが完璧に調和する境地=『三密』によって成就する秘密加持力をもって、雲海の如くに広がる無限大のプージャ(供養)は展開する。その上で、厳重に且つ、幾重にも辟除結界された、秘密修法檀に降臨された仏天…。
『プレーステーション』が発明される遥か昔、このような(徹底した)バーチャル環境を作り出し、恭しくも供養(プージャ)を供して祈る実践を、人類は開発していた。その技法が、9世紀初頭、弘法、慈覚、智証の各大師が命懸けの入唐求法を敢行されたことで、東海の我が国に請来されているのである。

密教の祈りは、このような内容構成から『供養法』とも呼び、基本となる十八道作法の内容を一段と増広して、特定の本尊に祈願せんと企図されるようになって現在に至るまで、師から弟子へ厳格に伝法されてた不断の歴史を有する。先徳方によって注意深く再構成された所謂『別行立て』が、東密においては、弘法大師以降、多く編纂され、修行されることになるのである。

ここで行者が特に留意すべきは、そのようにして展開する供養のプロセスにプラスして、『念誦』と呼ばれる作法に通じることだろう。この念誦こそ、祈る本尊と一体化していく重要な契機となるものだ。

ところで、先に別稿で『不二而二』と『而二不二』を記した。とりわけ醍醐/憲深僧正の系譜においては、後者の『而二不二』をオモテとして修行することは銘記しておくべきだ。室町時代に頂点を迎えた南山教学における一大事―――。所謂『応永の大成』によって、真言密教の事教二相は、大まかには二つの流れとなって後世の事教二相の潮流を形作ることになる。

略して『不二』と称する考え方は、一面『理念的』(頼富本宏師)との評価付けが可能なものである。対する『而二』は、『冷静客観的』との見方(同師)とされるものだが、高野山の宥快法印が、この而二門の考え方をオモテにしておられたことは、後述する『不二一乗』の修行を志す人ほど、(逆も真なりとして)自らの記憶の端に留めておくべきことなのだ。

宥快法印が“ウラ面”にされた(このような表現法は不適当ではないが…)『不二門』こそ、『天台本覚論』とも、地下茎で(濃厚に)連なり得るものではないか。一説には、宥快法印が高野山山王院の前庭で、真言立川流の聖教類一切を焚書坑儒したことの背景に、この不二門教学(≒本覚論)のもつ、ある種の恐ろしさを直感されたからだと言う説がある。

歴史的に見て、不二門や本覚論の延長線上に立川流や玄旨帰命檀の位置したことを、知る人は知っているのである。そのような『あだ花』とも言うべき実践については、真言密教の教学をきちんと知ることで、逆説的ではあるが、正しく受け止めて、正すべきは正していく姿勢は、とても大切なことなのだ。

所謂『邪教』として断罪された実践を、皮相的な見方で捉えること=単純排斥は、却って危険な行為である。一方で、『修験道は実践第一を旨とする』との『甘言』を言い訳として、一切の座学を放棄することは、重大な勘違いもいいところだ。屁理屈を言うわけではなく、『座学』という実践はどうしている?!なのである。冗談抜きで、これを怠ることで邪教の本質を見抜けなくなることは極めて危うい。密門/験門行者としての『世のため人のため』とは何か―――。この大事すら、明確に打ち出せなくなるからだ。

さて―――、回り道をしてしまったが、念誦こそ、密教の祈りにおいては、祈りのエンジンとなって起動する場面の真骨頂と言えるだろう。同門の先達師は、『人さまに加持して渡す御札だから、時間がどうのと、散念誦を端折るのだけは絶対良くない!』と言っていたが、私も概ね同感だ。(念仏マシーンなる批判については、いずれ論じるつもり)
古代インドの話に少し戻るが、『ユガ(yuga)』という技法は、本尊と行者が一体化する(不二)作法の基盤となるものである。供養法においては、これによって『もともと一体化している本尊を自らに覚醒する』ことを狙っていると言うべきだし、そもそも修験道が『即身即身』と呼ぶ悟りの境地に肉迫するためにも、このような背景を十分に理解しようと努めることを前提としなくてはいけない。

これによって―――、当山派恵印験門においては、『不二一乗』という考えが徹底されるのだ。金胎両部は不二、言い換えると、平等で等質だとして『一元化の極み』として観ようとする。『験門本尊たる不動尊を、まさに胎大日の所変として観る』と言って過言ではない。そのようなメンタルの操作が(強烈に)行われることで、対する金剛界大日が、最終局面で不動尊という名の胎大日と一体化するのである。

一方で、『一体化する』ことの意味を、実際に合体することで実践した秘儀体系―――。密教は『肉身の肯定』をオモテにするからと、そのような実践に踏み込んだ内容(=立川流)を、同じく真言密教の別なる視点から強く批判できなくてはならない。『即事而真』という密門の大事とは、明確に切り離す作業に繋げていくことが大切だ。
この場合、当山派修験道では『理智不二界会礼賛』や『五輪観文』という経文を通じて、不二一乗の深奥に入っていくと考えて良いと思うし、それこそが験門なりの邪義へのアンチテーゼとするべきプロセスと考えるべきだろう。

☆ 即ち―――、『我即アビラウンケン』。

『不改自身妙即身、覚悟支分以成仏』として、己が五体を、曼荼羅の宇宙にそっくりそのまま配置して/重ね合わせていくのである。験門修行を志す我、即ち『不動尊』が曼荼羅宇宙に自己を完璧に投影する刹那、心内において長く眠っていた大日如来は覚醒され、秘密の蔵は開示されることになる。その瞬間、行者は茫漠とした巨大な曼荼羅宇宙の震央に位置しつつ、『恵印総曼怒羅』の宇宙と『爆発的に一体化』する瞬間を迎えるのだ。