蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

真の利生

今日は少しまとめて書く。先日、そのK師に法螺貝CDの御礼をかねて電話をした。ご多分に漏れずと言うか、K師との電話だけはいつも『野郎同士の長電話』となってしまって、気が付いたら(今回も)小一時間が過ぎていた(苦笑)。

お互い娑婆の生業を勤める傍ら、それぞれの修行に精を出している環境であることに変わりはない。普段なかなか言いたくても言えず、分かってもらいたくても分かってもらえないことに対する鬱憤もあって、とにかく『あっ、そうそう、この件です、あの件です』と、間欠泉でも噴出したかのような光景となる(笑)。

因みにK師は某地方局のキャ●ターである。その局のHP上で、背広にネクタイをしている姿を見つけて、正直笑った。スミマセン。尤もこの私も、人のことなど言えない。真言や経文を唱える代わり(実は)英語が日常のところで、各種の数字を見たりと、これまた両極を行く日常だ。PCを使う時間も結構長いので、目に良いというサプリメントを愛飲して頑張ったりする状況は、世間の思い描く『行者=聖者』のイメージからは程遠いに違いない。(尤も、聖者云々など思ったことはナイが…)

ところで、その電話で話した主要議題と言うか、課題と言うべきか。それは『加持祈祷』のことであり、突き詰めれば『チカラある行法の実践』について、になるだろう。

K師のところに飛来するメールの中に、『貴方は仏教についてどう思っているのか?』というものがあるそうだ(苦笑)。批判メールの類と感じて、敢えて返答しないままとポツリと話をしておられたのだが、何だか寂しそうな感じが、やけに印象に残った。

修験道密教ではない』と、件のK師は公言して憚らないのだが、それをする以上は、確かに批判の矢が、一方の勢力から石礫の如く放たれるのは止むを得まい…。大事なことは、その種の批判に対して、K師の立場に立った場合、どのような回答を用意するか―――。友人の一人として、一緒に考えてみることの方がより建設的だろう。

今のところ、それ以上の詳しい話をする時間がないこともあって、それ以上には踏み込んではいないが、またお会いした時、つまり時間をゆっくり取って話をするチャンスがあれば、何らかの検討材料を提供することにはやぶさかではない。

私がこうしてK師の立場を、ある意味擁護する側に回るのには、やはり理由がある。ひとつには、同じく軸足を『半僧半俗』においていることと無関係ではない。この立場でやってみたら共感することがあるのだ。まあ、変な感想かも知れないが『戦国大名の気持ちが分かる』という感覚があって、K師の修行するソレは、これと軌を一にするものなのである。

実際、平成の『サラリーマン』は、昭和のサラリーマンとは明らかに異人種として生きている。その違いについては、喩えは悪いが『社保庁職員の堕落』を思い浮かべてもらうことで、かなりハッキリするだろう。『コンプライアンスの遵守』『コーポレートガバナンスの徹底』『個人情報の保護』『環境対応』etcを、日常的な職務規律と同時進行させている人ならば、それがどれくらいデタラメで、腐り切った倫理観の権化であることは容易に理解されよう。

『日常を流す』ことを恒常的にする職場環境の水は、必ず澱む。『変化を恐れるマインド』が上から下まで蔓延してしまうことで、その企業は死ぬ。この弊害を放置することで、マーケットからの一発退場。この深刻さに気付いた平成の企業群は、変化という作業を一層加速させている。ここで頑張っている『ごく普通の人たちの実態』を知れば、彼らの犯した過ちの原因に、昭和の遺物となった、例えば旧国鉄と本質において同じものがあることに気付く。

平成の明らかに変化した環境下で、より高い成果を恒常的に求められる自分(たち)のココロが折れないように支える工夫。一方で、その重圧に耐えられずに落ちていく人。

だからこそ真剣になって職場の息災を祈り上げ、極めて大真面目に利生を拝んだ局面が何度もあったし、これからもきっとある。

そのK師の修行する秘法は、間違いなく『戦国大名からの需要』があったことだろう。それ自体について、だから、私は決してマイナスの評価をしない。ビジネスシーンというものは、ある意味『死ぬか生きるか』を追体験させる性質があるのだ。真剣に仕事に打ち込んだ人ならば、一度や二度、そういう目に遭遇するものだ。その時、素っ裸の自分の、そのあまりの非力さに気付いて、泣きたくなるような気持ち。それを、身悶えするくらいの抑え付けを試みて、とにかく踏ん張ること。そのチカラの発現に、私は真の利生を見る。

『人を祈り殺すほどのチカラのある行法を修めない者に、人を本当に生かす祈りなど出来ない』というK師の言葉を、私は自らの職業人生を重ね合わせることは多い。

一方で、そういう祈りと同じくして『覚りを自らに実証する』ことが、表裏一体の関係にあることは、K師の話の中にあることは疑いないと、確信している自分がいるのだ。それを上手に共生させること。これを工夫することで、もうチョッと肩の力が抜けるのじゃないか。そんなことを思っているところだ。