蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

誓い

いよいよ今週末の26日(土)、北京オリンピックの聖火が長野にやってくることになった。

先ず『一切の暴力を停止する』こと。これはこのブログでも、数回取り上げて訴えたところである。まさに『正念場』だ。

この『非暴力』について言うと、直ぐに『弱腰』だの、『事なかれ』だの、ひどくなると『敗北主義』の反応が返ってくる場合がある。

言うまでもなく、『それは違う』。想像を絶する強い忍耐力。これが試される瞬間だからである。

ところで、当日、チベット物故者の法要が善光寺において、市民団体が施主となり、有志僧侶によって法要が厳修されるとの報道があった。

『理不尽な仕打ちを受けたとき、人を恨むな。仏さまに訴え出よ』とは、仏教信仰の先師方からの戒めである。この意味するところは、とりわけ篤信の方々におかれては、日常の祈りの中で痛切に感じて、日日を過ごしておられるに違いない。

世間の道理に係わる理非曲直は、正々堂々とした言動によって正すことは勿論だ。それなりの準備も要る。しかしながら、同時進行で、精神世界の価値を共有する人であれば、その価値観の示すところをよく理解して、モノイズムに狂奔する人たちとは一線を画する行動を心掛けることが大切である。

それゆえ、当日参加されるであろう、聖火ランナーの身に危害が及ぶようなことなどあり得ない。そんなことはもってのほかであり、そのような行為は強く批難する。ランナーに選ばれた彼ら/彼女らとて、今は複雑な気持ちで一杯なのだ。ずっと笑顔のまま、晴れやかな表情のまま、担当のコースを走ってもらえるよう、配慮してあげるべきだ。

万が一にも、そのランナーを泣き顔にさせるような行為があれば、私は、今からそのような理不尽に対して、強く警告する。

一方、物故者の法要については、三界万霊の追福を祈り、併せて、その仏果増進を祈念して回向するものである。先にお寺の境内を損傷させる行為があった。それは、この祈りという実践の趣旨に照らして考えた時、全ての命に対する冒涜行為となることを、その人は肝に銘じなくてはならない。

重要文化財だから…』とは、本来的に、世間向けの説明において必要な項目なのである。そうしないと、普段着の説明では却って分かりにくい。しかしながら、今般の緊迫した状況を踏まえたとき、日本仏教の祈りは、チベット仏教の祈りと同じく、精神世界の価値観=霊性の視点を有するものであることが、きっと理解されるに違いないと信じている。

一切の武器を有しない非暴力の戦い。その理念の気高さが、仏者と随喜の善男善女の織り成す尊い祈りを通じて、人々の心に静かに、そして深く浸透するよう、強く願っている。

そのようにして発信された長野の姿。私たちは、非暴力の誓いと実践とは一体如何なるものであるかを、逆に、世界に感動を与えるくらいの気概で発信しなくてはならないと考える。

大挙して押しかけ、やみくもに旗を打ち振り、やみくもに歓声をあげるだけが、人間の歓喜の姿ではない。心静かに祈り願う人たちのいることを、私たちは、当日は片時も忘れべきではない。