蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

同体大悲

『何とも痛々しい…』というのが率直な感想だった。

長野の聖火リレー…。

中継画面からは、歓喜とはおよそ程遠い『深い悲しみ』が伝わってくるようで、こういう行事ならば、『もうしない方がいい』とも感じたくらいだった。

本来ならば、リレーされていく聖なる炎に目を向けなくてはならないのだ。が、十二分に訓練された精鋭の、それも鉄壁の警護フォーメーションの見事さにばかり目を奪われてしまっていたが、恐らく、それを思って中継を見ておられたのは、この私独りではあるまい。

大勢の人々が、ともあれこの行事完遂のため、それぞれの持ち場でそれぞれのプロ意識をもって、昼夜を別たず精励されていた筈だ。その部分では『お疲れさまでした』と、(せめて)一言申し上げたいと思っている。

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仏教の根本には『慈悲』の教えがあることは、諸賢もよくご存知だと思う。

そのうち『慈』は他の人に対して、積極的な喜びを与えようとする奉仕の心がけ/実践を言う。

一方の『悲』であるが、その人の痛みや苦しみを我が身のこととして、積極的に捉えていこうと努める哀憐の心掛け/実践を言う。

さて、自坊の本尊/大日大聖不動明王のご誓願においては、ときに『同体大悲』と言って、慈悲のうちの『悲』の部分を敢えて強調して説明する場合がある。

憤怒の形相の向こう側にあって、且つ、衆生の苦海を漂う様相を半眼で見つめる形相―――。『深い悲しみ』の心が秘されていることを伝えんが為である。

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『警察全員、欽ちゃん走りしていたよ』というコメントを発したタレントの欽ちゃん。萩本欽一氏が、これを記者会見で述べているのを見た時、実は、私は何ともいえない『悲しみ』の表現を、その文脈から強く感じていた。そして、今回の幾つかあったコメントの中で、間違いなく『秀逸のコメントだった』と思っている。

本当の『笑い』とは、深い悲しみを知った人が発すると、それを間近にした人の心を打つものであることを、萩本氏は伝えたのだ。否、それは欽ちゃんの口を借りてなされた、仏天の聖語、とりわけチベット仏教の本尊さま/観世音菩薩の真言であったのかも知れないと、今これを書いている最中にとても感じている。

『言いたいことが一杯あったんだろうね、僕の時にさ…、だから気にしてないのよ』を聞いた時、我が身に替えてその痛みを一身に受け止めようとされる、観音さまの深い思し召しと何だか重なっていくようで、身を正さずにはいられなかった。

『人を殴る側の人は、久方ぶりに同窓会で会うと、何も無かったかのように楽しそうに振舞うものだ。でも、殴られた側の人は、どうしてもわだかまりを感じて、その場所にいることさえ、却って二の足を踏むことが往々にしてある』(先般来日した李明博/韓国大統領のコメントから抜粋/要約)

自分が『勝ち組』の一員であるからと、心に奢りはないか。『負け組』だからと、安直に蔑み、足下に踏みつけてしまうとする気持ちがあるならば、『還著於本人』(観世音菩薩普門品第二十五偈)として、自らの足をすくう因縁となろう。

『同体大悲』の言葉は、それゆえ、単純素朴の同情を表わすものではなく、この言葉の心を護持することが、最後には自分自身の安寧に係ってくるものになること―――。この意味するところを、私たちは、改めて肝に銘じなくてはならないと思う。