蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

法身説法と加持身説法~その2~

ところで『加持身説法』である。私は以前から、『なぜ『加持身』とか言って、ひねってしまうのかな』と、率直にそう思っていた(苦笑)。『常住不滅の法身がダイレクトに語りかける』とした方が、ずっと説得力がありそうなのに…。

最近でようやくであるが、自分がこうやって行法を授かって拝むようになり、事相面の教えを少しでも知るに至って、僭越ながら、そのような(浅薄の!)考えに修正を加えることが出来るようになったのかな、と感じつつある。

今のところ、この加持身説法に至った理由を、私は以下のように捉える。

そもそも新義派/頼喩僧正は、高野山の伝法院に入山する前は、京都山科/醍醐寺で研鑽を重ねていた学僧である。当時の醍醐寺は、『真言密教に係わる研究機関と研修センター』を兼ね備えて活動しており、予算規模と言い、研究レベルと言い、名実共に、中世のわが国における最高研究機関の地位を占めていた、そう言ってよいところだ。

因みに平成の今に至っても、収蔵物の研究整理は進行形だ。真言密教関連のものを中心として、ありとあらゆる典籍、仏画、法具などが、何百年に渡って集積された歴史を有するからで、その解析のため、多くの労力と時間が費やされているのだ。

その中にあって特徴的なことは、弘法大師ご在世の平安初期から以降、即ち、平安中期以降の中世では、事相面の充実が『異常なくらい重んじられた時代だった』ということを理解する必要がある。

その結果として、是非はともかく、曼荼羅の最外院の『等流身』(の方向)にスポットライトが照射された時代ではないか、そう感じるのだ。

今、たまたま『予算規模』とか言ったが、その意味するところは、当然のことながら有力なスポンサー・グループの存在したことの証左である。つまり、金銭のあるところ、必ずや権力の駆け引きが付いて回るという現実も含まれる。

新義派の祖/覚鑁興教大師が高野山に入山される前は、高野山は荒れていた。金剛峰寺の良禅大徳らの努力はあっても、所詮は、遠き『南山』なのだ。平安の都から遙かに離れた山深い地に、一端途切れたカネとモノの援助など、簡単には行き届かない。

逆に、京都山科にあった醍醐寺が、有力貴族の子弟を多く入山させつつ、門跡寺院の格式を欲しいようにしたことで、当時の最新情報は相当に入手しやすく、ヒト・モノ・カネの流れに不自由のないことは容易に想像できることだろう。

一方で、そういうロケーション的なメリットには、『権力闘争に巻き込まれやすい』現実が片方の対になることは、ある意味止むを得ない。当然、『祈祷で何とかしてくれ』式の祈願は、かなり頻繁にあったことだろうし、そういうリクエストへの対処は、すでに弘法大師の高弟が、その道の先鞭をつけておられた。醍醐寺開山の聖宝尊師の師僧/真雅僧正だけでなく、紀氏出身の真済僧正らを通じて知られるところである。

要するに『その筋の権力闘争リクエスト』の持ち込まれる頻度は猛烈に上がって、まさに『成果主義からくるプレッシャーとの闘い(?)』を地で行くようなところがあったから、却って、事相面の研究・研鑽への傾注が実践されていたと想像する。実際、そこで『成果』を出さないと、予算カットの憂き目に遭うことは、拙いが、私の周囲でもしばしば経験するところだ(苦笑)。

このような場合、今風に言うと『プレゼン』の一形態と言うべきか、誰の目にもハッキリ見えるような具体性をとることが必須条件となる。『最外院の等流身』、即ち、天部尊に対する祈願は、このような背景に視点を移せば、速悉の成就という意味で、かなり自然な要請であることがおぼろげに見えてくる。繰り返すが、早い段階でハッキリ見えることも、また大切な要素となる。

~続く~