良源慈恵大師の図録
善縁を得て、ある方より、本年2月に大津市歴史博物館で開催された『良源慈恵大師1025年御遠忌記念・特別展示会』の図録を頂戴することになった。
ざっと目を通して、ハッとした箇所があった。それは若き日の元三大師が、石山寺淳祐内供(890(寛平2)-953(天暦7))を通じて、その資となる元杲(げんごう)上醍醐延命院僧都(914(延喜14)-995(長徳元))と交流されていたらしい、という説明であった。
台密のエースである若き良源阿闍梨が、南都興福寺継摩会で義昭師との対論に能弁を発揮された背景―――。恐らくは、東密の学匠が弘法大師以来の伝統として南都大寺で研鑽するカリキュラムを肯定的に捉え、顕密二教の研鑽に励まれたことは想像に難くないし、事実そうである。(密教辞典(法蔵館))
また、元杲阿闍梨の師となる淳祐内供の師とは、理源大師の正嫡観賢僧正となる。さらに言うと、その元杲阿闍梨の正嫡は仁海僧正であるが、この方は『玄深口訣』という解説書を残した。三宝院にて護持されることになる最勝恵印三昧耶法の整備には、台密良源慈恵大師との交流もかなり深く影響しているのではないか…、そのような気持ちになってくる。
実際、『本覚讃』の作者は不明というのが一般の説明ではあるが、これを伝良源作として尊重する説明のあることも紹介しておきたいと思う。(真言宗で読むお経入門・『和讃』(大法輪閣)) 言い換えると、当山方の教学において非常に近しい哲学が台密には伝法されているという意味がそこにはあるのである。
但し、両部不二の行き方もまた東密であり、れっきとした当山派の哲学なのである。
追伸、
OOさん、どうも有難うございます。拙き筆力にもめげることなく、仰せの通り、大勢の方々にご紹介申し上げることに致しました。
『南無良源慈恵元三大師常住金剛』
合掌