蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

法身説法と加持身説法~その3~

『大日法身が説法する』は、プロの学僧にはピンと来ても、一般人にはとても掴み辛い表現だ。

考えてみれば当たり前のことである。『戒律の護持を日常とし得る人たち』ならまだしも、或いはその逆で、その日の食さえ事欠くような人たちなら尚更だ。これによって真言密教における『成仏』に向かう理論的基盤『三密加持の実践』(即身成仏義)に共感を求めたところで、本当の意味で期待などできはしまい。

『摂取』(せしゅ)―――、即ち、浄土門の説く『ホトケが衆生を全て収め取ってしまう』とする救済スタイルは、こうした『仏教信仰のプロ化』に対する、圧倒的多数の“アマチュア”の側からの反発として生じたものと考えて間違いない。そして、『アマチュアを否定する考え』“傲慢さ”に対して、仏教信仰を取り戻そうという、強い力学が働いたのだ。

この『プロ化』に関連した私見になるが、密教信仰がこの言葉を通じて誤解され、偏ったエリート主義のような形に歪められてしまったことは、かつての一部の教科書の記述から知られるところだ。曰く(一般大衆が置き去りにされた)『貴族仏教』であると。まったく遺憾なことで、これを宗学の中で是認することなど、決してあり得ない。

これについては、別途物申す所存だ。少し脇道にそれてしまった。本論に戻す。

この点において、『法身説法』とは三密加持の実践を前提として(それを実践する人にのみ)開けてくる眺望だという、南山教学における一方の有力な教説『修生始覚門』を無視することは、逆なる意味で『してはいけない』。

高野山の宥快法印が(修生から導かれるところの)而二法門を(頑固に)標榜し、その立場をオモテにして堅持されたのは、ひとつには、これら実態を大きく俯瞰し得る『現実的で冷静な確信』があったからで、とりわけ宥快法印が、『暴走した(本有本覚門から導かれた)不二法門』とも言うべき『真言立川流』と厳しく対峙された(まさに)当事者であった史実を、併せて考えなくてはならない。

ともあれ、この修生の考え方に対して、同じく真言宗内では逆の立場をオモテにして堅持/主張するグループのあったことは、もっと周知されるべきだと思っている。この教え『本有本覚門』と宥快法印の『修生始覚門』がシンメトリックな関係性を形作り、あたかもそれら二つが見事に調和する様相をイメージしようと努める態度の中から、上述の『大いなるエリート誤謬』と対決し、且つ、払拭し得る眺望が開かれる。

そういう視点に立った上で、『それ(=修生)では、却って朝野の期待に応えることは出来ないではないか』という根強い反論の存在した事実を知り、それが高野山内(道範僧正)だけではなく、とりわけ真言宗/京都有力寺院(東寺三宝(杲宝・頼宝・賢宝の各僧正))を中心にして存在した事実を認識することが、とても重要だ、とういう事である。(注1)

有り体に言えば、修生法門をオモテ看板にすることで、一歩間違えれば『密教とは所詮、条件付の成仏の教え』と受け止められかねず、此処をうまく説明できない教師は、布教上の致命的なダメージを負うことになるという懸念が付いて回る。これによって布教上のジレンマが生じる事態について、娑婆世間の近くにいる本有派の学侶ほど、より鋭敏に反応せざるを得なかったことは、容易に想像できる。(注2)

『条件付の成仏』をどこかで、それも完璧に払拭しなくてはならぬ―――。そうでなくては、現実の布教実践に支障をきたすばかりか、顕教(⇒三劫成仏)のそれと何ら変らないという批判を受けかねない。

そもそも宗祖の手になる『弁顕密二教論』の扱いは、どうなる?『御請来目録』の上奏文は? 現実を重視するあまり、冷静に構えてばかりでは、逆に、宗教上の魂とも言うべき情念(パトス)をも否定しかねない。そのようなパラドックスに陥った真言密教など、見放されてしまうに違いないのだ…。情念(パトス)があればこそ、『決定諦信』という信仰生活の基本において、まったく欠く事のできない高い理念が成立し得る。

(尤も、この逆の感覚を修生派がもっているのだ。立川流という『邪教』に至っては、情念を無節操に放置した挙句の思い込みによって生じた、そう考えているからなのだ)

考え抜いた挙句に編み出した、ひとつの答え―――。私は、それと『加持身説法』のシンクロする風景を、ずっとイメージしてきた。

(注1)本有本覚門の護持については、三宝院を中心とする醍醐山もその例外ではない。醍醐山では修験恵印法の実践を通じて、理智不二一乗の徹底化が図られたが、このことは布教史の側面から無視出来ないと思う。

(注2)近年、『霊感商法による因縁因果の脅し』によって被害を受けた事例がしばしば報告される。現代社会における布教実践の事例において、『本有本覚門』を前面に打ち出すことで『誰しもが、もとより成仏の種子を宿して生まれた』ことを説き聞かせ、『成仏という希望の光』は誰もが見出し得るのだとして、霊感商法に特有の『因縁による絶望のロジック』を破綻せしめた事例のあることを耳にしている。『とりあえず助かるのだから有り難く思え』の如き論法は、真言密教のものでは断じてナイ。

~続く~