蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

法身説法と加持身説法~その6~(最終章)

そして―――、ここでもうひとつ付け加える。

『加持身』は『加』と『持』のうちの後者、即ち『支えるもの』を顕わにした結果であり、寧ろ、その強調こそ、時代の要請であり、それゆえ『主目的』でさえなかったかと思う。

前述のとおり、実際の布教現場では、最外院の等流法身、つまりは天部の神々と八百万の神々とが習合した、『垂迹の仏尊』という形で具現化することを期待する、ある種のコンセンサスがあったのだ。

この上に立って、加持身説法は、それに重ね合わせる形で展開されていた、そのように仮説を立ててみる。

一般に新義派に言及すると、先ずは派祖/覚鑁興教大師の、台密まで網羅した真言野沢諸流遍学の結果、そして、伝法院流の創設という大事業に言及しない訳にはいかない。

次に『易行道』と呼ばれ、或いは『一印一明一観』を通じ『一密成仏』として辿り着いた新義派の『真言密教・再構築事業』になるのだが、ここにも言及する形で、これからの話を展開しない訳にはいかない。

『一密成仏』―――。この場合、その核心はずばり『一明』、つまり『念誦』であると、私は思っている。

虚空蔵求聞持法の修行を十数回にして、悉地成就をすること八回という、前人未到の神秘体験。覚鑁上人が修行過程で得た『確信』は、一密を得た人は必ず二密を得て、最後に三密に通達するという『一密成仏』=『易行道』の理論的基盤となり、後進の真言教師に対する『福音』となったのだ。

浄土念仏が秘密念仏として『一密(=口密)によるユガの修法』の体裁を取り得てしまうのは、実際、覚鑁上人の新機軸の影響を無視することはできない。修行理論として、浄土門が意識する、しないに係わらず、それは『秘密念仏』になることは、覚鑁上人の教説を知れば知るほど一層顕わになる。

但し、その『念仏する対象』には、ことのほか注意が要る。

真言密教ならば、『心内のカミとホトケ』でなくてはならない(弥陀即大日⇒五輪九字妙秘密釈)。それが『醜悪』だと(仮に本人が)思い込んでいたとしても、宗祖大師の教えに忠実にすれば、『どんな時も自身の源底に阿字本不生を観る』態度で臨まなくてはならないのである。

そういう視点を堅持することを覚悟しつつ、布教の現場にあっては、例えば『偽経』の言葉によって意識的に避けている人すらいる、以下の経文を読むのだ。

『無相の法身は虚空と同体なるが故に、而も住処なし。但し、衆生心想の内に住し給う。衆生の意想(こころのおもい)は各々不同(それぞれにちがうもの)であり、(だから)衆生の心に随って(自由自在に姿かたちを変化させて)而も利益を成して、求める所を円満せしめ給う(ことに導く)』

そう―――、『仏説聖不動経』である。

そして同時に、この経文ほど熱烈に支持された『偽経』のないことを、布教現場に近い人ほど、明確に意識したはずだし、実際しなくてはならない環境に置かれるのだ。

これが、不動尊に関する最も代表的な儀軌『底哩三昧経』の伝える不動尊の利生に係わるサマリーであることを確認すれば、その瞬間、『偽経』に付着する『世間のノイズ』は完璧にシャットアウトされることだろう。

大切なことは、その人のカミとホトケは、念ずることをして、まさに思いのたけをぶつけて、即応のレスポンス『明確性』を具備されねばならないということである。

同時にある種の『強靭さ』が、その一連の行為の中に具備されなくては、その信心は容易になぎ倒されてしまうに違いない。この点を、娑婆世間の人々は、“プロ以上に”よく理解していた/理解しているという現実を、『そこに在る』ものとして、正しく知らなくてはならない。

新義派祖/覚鑁上人が到達された境地は、その正系の後進/頼喩僧正によって再構築され、“真言改革派の新機軸”として打ち出されたことに限定すれば、『意地を貫徹した結果』とも取れる。けれども、それだけでは足りないのだ、きっと…。地下茎の結びつきとして検討することは、この場合、決して無益ではないのだ。

“地下茎”―――。すでに『神仏習合』に言及した。

この場合、真言諸派の実践として、それは神道信仰、否、日本人自身の、祖先から脈々として伝承した『言霊』(ことだま)の思いとクロスオーバーしていくのではないか。その過程で、神聖で寡黙な神祇(=神祇の本地身)は、ことさら『醜悪な姿』(=神祇の加持身)に自らを変化させて、即ち『究極の大音声』を発して、人々に対する救済力のひとつの回答をするのである。

古義派の建前では『法身説法』としても、“新義派”頼喩/聖憲両師の放った『加持身』の視点は、浄土門との布教上の課題に直面した、その後の古義・新義の両派・本有本覚門の(=布教上のジレンマを抱えた)真言教師に、想像以上に大きなヒントと、大いなる眺望を与えたと思う。

その瞬間―――、ビルシャナ仏の大悲は、バン字という『声』と『文字』を伴って、生きとし生けるもの、すべての菩提心を潤す。そして、ビルシャナ仏の大慈大悲の思いは、そのバン字に最も相応しい『声と文字』に変化することを許し、求める人の心に、大いなる音声をもって、しかも、密かに語りかけることになるだろう。