蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

法身説法と加持身説法~その4~

ところで、新義派の加持身説法を宣布した頼喩僧正と、その後進の聖憲僧正は、共に『修生』⇒『而二』を主張していたグループに属する。

前回述べたとおり、『修生始覚門』とは、(それが一義的であったとしても)絶対多数の“アマチュア”にとっては、所詮『真言密教とは条件付成仏の教え』なのだ。

それで―――、最近とみに脳裏を掠めるイメージから、唐突に思い付く比喩がある。神道信仰にある『和光同塵』…。

つまりは、こうだ。

法身では画素が高すぎて解像できない。が、法身のうち本地身と分離してある加持身として、少しばかり画素を下げれば割と容易に解像できる…。アンビバレント(両面等価)の様相(宮坂宥勝師)を実相として正しく捉える態度を、真言教学では往昔より『即事而真』(そくじにしん)と呼んで大事とする。

『アマチュアだな』と、言うなかれ。

極めて俗っぽい比喩の説明を許されれば、『聖化の具現化』が要請された結果は、逆説的だが、ホトケの種子を宿すことのイメージが前面に打ち出されなくては、娑婆世間の誰にも分からないのだから。宗祖大師が『菩提心論』によって、『如来蔵』を最重要視されたではないのか。

ところで、密教によって理論化された中世の神道の教えは、この点では、娑婆世間では極めて受け容れやすいもので、その点では『本有』であろうが『修生』であろうが、異論はない。要は、民族固有のDNA内に格納されているからだ。

問題なのは、そういう民族固有の文化的背景(⇒神仏習合)を含んで見詰める行為が、密教思想史の中では殆どタブーに近かったし、今でもそうだ、と言って過言ではないということだ。最近、ようやく『神道信仰は感じていく実践』という言葉で表現され始めていることは、非常に喜ばしい。

さて―――、ここで注意が要る。単純に『思い込み』を強めていくのではナイ、ということである。

先ずは前回、真言密教の『成仏』について記したことから始める。

『仏に成る』と読み下すことを当然視してしまうと、この点で大きく間違うという観点からだ。

ここの箇所は、曰く『仏として“ある”』というのが原文であることを知るべきである。『アビサンボーディ』即ち『現等覚』は、現存するチベット語訳の大日経において、翻訳されているサンスクリット原文として、『仏としてある』と。(宮坂宥洪師)

在唐時代に般若三蔵、ムニシリ三蔵から梵文経典の学修をした空海弘法大師は、この事実を確実に知っていたと推定される。(同師)

この事実を知った上で、『成仏』を用いる真意。つまりは、『成る』という上求菩提のベクトルと、『ある』という下向衆生のベクトルは、本来的に同時進行されるものとしてセットされていたと考えなくてはならない、そういう意味になる。

そしてこの“自利と救済のセット化”を理論化した弘法大師空海の教説は、仏教史上空前の出来事であった。(同師)

~続く~