NHK番組/『無縁社会』
ここ数日、無縁社会の広がりをレポートするNHKのドキュメンタリーを見る機会があった。働き盛りの世代から、さらに10代の若者世代にまで(!)、人との繋がり/絆を失いつつある人の数が拡大している現状をレポートしたものだった。
お大師さまの件で昨日アップしたのだが、もうひとつ付け加えたいことがある。
その中に『…重重帝網なるを即身と名づく』という一節がある。この箇所の訳文は、他書で多く解説されていることもあるので、ここで簡単に止めたい。
要は、『この世の存在すべては、帝釈天の宮殿にかかる神秘のレースの結び目にある五色の宝珠の如く、お互いの姿を鏡に映し出すようにして光り輝いている』ということを述べている。
これに、『即身成仏義』の冒頭、『六大無礙にして常に瑜伽なり』を加えて、『しかも、お互いの存在は深いところで融け合って同じなのだ』とする。
生命あるものはすべて、個別に切り離されたバラバラの存在ではなく、大いなる存在の内に一つのものとして包み込まれて生かされていることを、お大師さまは主張されたのである。
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この即身成仏義が解説される場合、『即身成仏の頌』という部分が紹介されるのが専らである。ほとんどこれだけが独り歩きする感すらあるのだが、無論、この著作はこれだけではなく前後に多くの論考が述べられている。
『三心平等』、即ち、仏心・自心・衆生心の三つは三密加持が成就した瞬間、完璧な平等(⇒三昧耶)の宇宙に住することが力説されていることは、非常に大切なところだ。
この真言は、事作法を研鑽される方なら、その奥深い意義をよくご存知に違いない。私も、特に『秘鉦』という東密の口訣書に、この真言が天部尊供養法通用のものとして残されていたことを知って、誠に僭越ながら深い感銘を受けた一人だ。
その神秘の大宇宙に溶け込むことを躊躇してしまうかもしれない存在(“汚れた”と思いこんでいる生命)であったっとしても、ごく自然にそれは浄められつつ成就され、しかも、その曼荼羅の宇宙に(実は)すでに存在していた自分の生命というものの意味を、改めて確認する道を開く―――。
少し小難しい内容になってしまったが、要するに真言秘密の祈りにあっては、どんな生命に対しても、『決して一人ぼっちではない』ことを伝えるエッセンスが詰まっていることだけは、どうしても訴えたいのである。
『こんな私でも…』という悲嘆をお持ちならば、密教の祈りの中では、『まったく気にせずでOKだ』。その“汚れ”なる言葉は、別なる表現をすれば、『気枯れ』である。
『自分の中に神秘のエネルギーをチャージしてもらおう』くらいの気持ちで祈って、全然構わないし、そうすることで必ず“道は開ける”。
『南無遍照金剛』
『南無神変大菩薩』
『南無聖宝尊師』
合掌