蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

理趣釈経

『文は糟粕なり、文は瓦礫なり』(文鏡秘符論)

弘法大師が残した言葉の中で、指折りの厳しいものである。もはや、『激烈』と言ってよい。

ずっと以前だが、最澄伝教大師の理趣釈経の拝借を請う手紙に対して、このような言葉で応答されたことを知った―――。

『あのお大師さまにして、こんな言い方もされるのか…』と、その時は一瞬呆然とし、次の瞬間には身体全体が凍りつき、しかも、そのままうつむいてしまいたくなるような、そんな複雑な気持ちにとらわれたものだ。

実際、弘法大師の言行録である『性霊集』を編纂した真済大徳によれば、『空海和尚はどんな時も柔和で、ずっと昔から親しかった人のように、私たち弟子らに対してさえも優しい言葉で教え導いてくれた』とあった、はず…、なのだ。

無論、『求法にあっては、それとこれとは別問題だ』という厳しい意見もあることもよく承知している。実際、それにかこつけて、私の目の前で『最澄は…、』と呼び捨てにした(無礼な)人さえいたくらいだ。

しかしながら、一方で伝教大師が『新来の真言家は筆授を滅ぼす』と慨嘆されたことの意味と、密教修学のそれとは、本質的に違うものであることも、よくよく理解しているつもりだ。それにも係わらず、である。

この般若理趣経に関するやり取りについては、例えば『密教=秘密仏教とは何か』を論じたい人にとって、とりわけ作家の方々にとっては、格好の題材となったのだ。

空海は老獪な策略家だった』という卑俗な解釈から、『空海の書は最澄の書に較べて脂ぎっている』というような(苦笑)、高尚なる(?)憶測に至るまで、彼らと同じ土俵に乗っかる形で、『日本仏教の巨大な存在の、その深い思いをアレコレ詮索などするものか(!)』と内心憤慨しては、『まあ、そういうこともあったのだ』と、ともかく(無理やり)自分自身を納得させようとした日のあったことも、また隠しようのない事実である。

そういう思いに囚われたまま、これから先、死ぬまでずっと過ごしていくのだろうか…。

ハッキリ言おう。理趣経を手に捧げもつ毎に、ほんの微かではあるけれども、どこかやり切れない思いを感じて、而してそれを胸に秘めて、日日の研鑽に励んでいる人たちにとって、あの激しき応答に対する複雑な思いだけは、きっとどこかで決着されなくてはならなかった。

今回、半田孝淳天台座主猊下が、凡そ1200年の月日を経て、弘法大師降誕会の吉祥日に、高野山奥の院を参拝された慶事…。

『文は糟粕なり、瓦礫なり』という言葉は、真言末徒の私にはそれくらい重かったのだ。高野山座主と天台座主が手を取り合っておられる写真を前にして、だからこそ、率直に身体の芯が震えている。