蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

お勤め

実は『これがお勤めのスタンダードだ!』みたいなものが、ある様でないのが、この世界の特徴かも知れません(苦笑)。見方を変えれば、一番良いのが、ご縁を得たお寺で一緒にお勤めする体験をする―――、なのでしょう(きっと)。お寺ごとに、それぞれ大切にしてきた伝統的特色があります。『その個性を楽しむくらいのつもりで』と思っております。

『お経は耳で唱えよ』と申します。が…しかし、周囲に和することなく、全く独善無視の読経(?!)をされる方が、時々いらっしゃいます。『人の言葉に耳を貸さない』という心なのでしょうか…。そのまんま、ご自身の態度として表れてしまっているような気が致します。こういうことに丁寧に気付くことから始めて、釈尊の説かれた道と、そしてお大師さまの説かれた真言密教の教えを、一歩一歩辿ることになるのだろうな、と思います。

昔、『お勤めしている時、自分が無数の仏・菩薩の中に座っているような気がしたことがあった。その瞬間にハッとした。諸仏諸菩薩と尊い合唱をさせて頂いているのだ。それに和することの意味…。今でも、お勤めする時に心掛けることです。』という話を聞きました。現代風に言えば『コラボ!』でしょうか(笑)。

では、貴殿/蓮華童子ドンは、どうやってお経を習ったのか? この質問が出てくることを予想して、思いつくままに、幾つかをかいつまんでお話ししたいと思います。

最初に手にしたのは、『真言宗檀信徒勤行式』(監修:高野山真言宗教学部)です。実はその前に某師から、東芝EMIのカセットテープを頂戴していました。それは般若理趣経のテープだったのですが、そのB面にその檀信徒勤行式があり、これを聞いて勉強しました。その後、高野山東京別院での『阿字観実修会』に通うこと足掛け5年ですが、そこでK先生と一緒に唱えたお次第のお経が、『私のオリジン』となりました。

お経を上げるスピードや抑揚、そして息遣い等‥。同じ宗派でも、お寺によって微妙に違います。私のそれは(恐らく)高野山のものです。K先生は親王院のN前官の徒弟として修行した時代をおもちですので、そう云う事だと(勝手に)思っています。

その阿字観実修ですが、当時は『時期尚早』とかの理由で、『講習会』という名称を認められていない時代でした。まさに『(私的)同好会』の時代で、そのK先生を含めた三人か四人くらいの『坐るのがスキ!』人たちで、小一時間ほど坐って、『お茶を一杯頂いて帰る』(これが何故だか思い出深いデス)というパターンを繰り返していました。

その後、醍醐寺末の徒弟となり、師僧から許されて修行を始めた時、私の般若心経が『他宗派のものだね…』とのコメントを頂戴したことがありました。『あ~、そうなのかな』と思って、ともかくそういう習禮(しゅうらい)がスタート地点にあったことを、これまた訳もなく鮮明に思い出します。

この『違い』について、もう少し詳しくお話しします。ひとつには『滅罪のお経』、そしてもうひとつ『祈願のお経』についてです。これら二つは、スピード、抑揚など、明らかに特徴を異にします。読み上げるお経も替わります。前者は『朗々と』、後者は『強く激しく』になるのでしょうか。そして読み上げるお経は、般若心経だけは共通しますが、祈願では錫杖経(しゃくじょうきょう)や不動経、観音経偈文などを、その環境に応じて読み上げます。それもスピード感を以って。

『お勤めしてみようかな』と思われた人は、最初は滅罪のお経の唱え方、即ちその『朗々と』から入ると良いと思います。『雨だれが滴り落ちる』ように唱えることを基本と致します。同じ調子で『棒読み』していきます。但し、指導者に付いて一緒に唱えることが大切ですので、お寺を直接訪ねることも検討してみて欲しいと思います。

『大丈夫かな』『住職さん、忙しそう…』とかの心配も確かにあるでしょうが、思い切ってお願いしてみると、案外すんなり『イイですよ』の返事もあると思います。私の周囲では、結構そういう気楽な感覚の人が多くいて、そういう要望に対して『丁寧に応えていこうじゃないか』、そう考えるような真面目な人がおりますので、ご参考まで。

祈願のお経を先にしないのは、幾つか理由がありますが、『初めてのお勤め』という点から言うと『クセがつく』ことの懸念はあるだろうな、そう思います。祈願オンリーでいると、ついついチカラが入ってしまい、熱くなってしまうものなのです。
訓練されていない人の場合(=それが普通デス)、ココロを上手にコントロールできるほど強く出来ていません。気持ちをそちらの方にグングン引っ張られてしまうが故に、先ずは『滅罪』、つまり『懺悔』の入り口から入って、『自省の時をもつこと』に力点を置く事が大切だと思っています。だから『淡々と雨垂れが滴るように』、そして『朗々と』です。

ともあれ、『耳で唱える』ことの意味には、思いのほか深いものがございます。これをご覧になった方が、どうか善きご縁との巡り会われますよう、至心にお祈りしたいと思います。
合掌