蓮華童子の日記

真言秘密行法の修法@自坊を中心にアップして参ります。

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『清浄道』の実践、即ち『仏道修行』に取り組んだ、我が国の有名無名の密門/験門行者。彼らをして、最もピッタリくる感性として受け止めらたもの―――。『穢れ』の観念は大いにあると考える。『わが国の仏教は、山岳仏教を基盤とする』と言われてピンとこない人も、その切り口から詳細を知れば、少しは納得されるのかも知れない。

先ず、『穢れ』は『汚れ』ではないということだ。寧ろ『曇り』と表現した方が相応しい。『清明でない状態』とは、『自らが自らによって劣化した状態』でもあるのだ。常に『更新=アップデート』(?)されるべきものとも言えなくもないが、ともあれ、そういう視点に立つことで『擬死再生』(山に入ることで古い自分は死に、下山する時、生まれ変わった新しい自分を知る)という山岳修行のテーゼが立ち上がってくることだろう。

顕教の説く『山川草木“悉有仏性”』を素直に感じる人ならば、この辺りの感性をダイレクトに受け止めるのではないか。往昔、大乗仏教の学論(顕教)の説く核心に触れんとした、南都諸大寺の学僧が、山林修行者の一群に次々と投じた事例は、まさにこの一点への希求にあったと言って良い。その一群に投じた中には、後の空海、佐伯氏一門の俊英/真魚(まお)がいる。その真魚空海となって、この山林修行時代に体得したものを丸ごと引っ下げ、長安青龍寺/恵果和尚にまみえて後は、『山川草木“悉皆成仏”』の境涯に向けて突き進むことになる。

ここで―――、その後に空海の法孫となる聖宝が、どうしても登場しなくてはならない。

修行時代の聖宝は、師僧/真雅の行き方とは対照的な行動を取る。貴顕社会を主たる活動フィールドとした真雅…。聖宝はまるで師僧の教えに反逆するかのようにして、積極的に山岳修行者の一群に投じたのだ。注意を要することは、だからと言って、密教修行に飽き足らず『験力獲得』目的で入峯したでは、全然無かったと云うことである。その験力獲得は、優先順位から言うと、実は後方に位置するものと考えられる。何よりも聖宝は、その験力獲得へ至る大前提として、『山川草木悉皆成仏』の確信を求めていたと見るべきなのだ。そのことは、その経歴から見て明らかだ。

そもそも南都諸大寺の学僧が、山林修行者の中核となっていたことは、若き日の空海の行動に強い影響を与えた事例からも容易に推測し得る。聖宝が三論宗学頭の地位にまで上り詰めたにも係わらず、そこで安住することを善しとせず、修行時代の空海真魚の行動をトレースするかのように『ジャンプ』した理由は、真言密教の到達した思想哲学レベルを知って驚愕したからなのだ。とりわけ十住心論の内容は、顕教学修の最高地点に達した聖宝だからこそ理解し得た大事と見るのが極めて自然だ。わが国古代において構想し得る、最大限の思想史俯瞰を空海が完成させたことで、後進の聖宝の中で研鑽された個々の知見一切が、まさに完璧な大曼荼羅の形を取って現前したのである。

聖宝は、その瞬間、真言密教が『空海密教』に、自らの内で大きく変容したことをハッキリ認識した筈である。『人法不二』―――、聖宝は、聖宝独自のスタンスを取って、真言密教の再構成に向けて強い情熱を燃やしたのは、ここに最大の理由がある筈だ。聖宝は、三論(中観)の般若空を骨格とし、修験道信仰を血肉とするスタイルで、真言密教の修行実践に傾倒し、独自の視点を付与することに成功したのだ。熱烈なる空海信者として、そして、それは私淑して止まない役行者の功績を、さらに一段の光彩を放つことに成功した瞬間だ。

『験門行者』を標榜しつつ、この一連のプロセスを通じることで、顕教僧/聖宝は『密教僧/聖宝』に、名実共に完全変身を遂げたのである。